新県政と尾去沢銅山事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/23 06:37 UTC 版)
盛岡藩が戦争に敗れると、政図は野田親孝らと共にその敗戦処理を取り仕切ることとなる。府藩県三治制下では藩大参事を務め、明治3年7月12日には盛岡県大参事に任命され新県政に当たった。しかしここである問題が発生する。旧盛岡藩は藩の御用商人であった村井茂兵衛の名義を使い英国商人オールトから大量の借金をしていたが、この負債は名義上村井が返済することになっていた。この負債を新県に移項させるにあたり、政図は村井を呼び出し同様の内容の誓約書に改めて調印させ、かつ盛岡県産物商社頭取に任命して責任を負わせた。翌明治4年、この証文が、当時各県の外債を代わりに返済していた大蔵省の次官だった井上馨の目に留まり、借金返済の代わりに村井の所有していた尾去沢鉱山を差し押さえて競売にかけ、井上の知人の政商に売り渡すという行為に出た。そのため村井は司法卿の江藤新平にこれを訴え、この尾去沢事件は井上と村井、そして旧盛岡藩関係者を巻き込んだ刑事事件へと発展した(井上馨#尾去沢銅山事件も参照)。政図は明治4年3月に大参事の職を辞しており、この事件発覚による一定の責任を取ったものだと思われる。明治7年の台湾出兵の際は、旧藩士630人の名前を書き上げて政府側に請願している。
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