就職、保険局員へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:20 UTC 版)
「フランツ・カフカ」の記事における「就職、保険局員へ」の解説
1906年6月、大学終了試験に合格。カフカは試験勉強に苦労し、ブロートに助けられて5人の試験官の内、3人から「可」をもらい、かろうじて試験を通っている。卒業に先立ち、4月から弁護士リヒャルト・レーヴィの元で無給見習いを始めており、10月からはプラハ地方裁判所にて1年間の司法研修を受けた。また、この年の夏、長期休暇を利用して、長編にするつもりだった作品『田舎の婚礼準備』の執筆に着手している。すでに1904年から「ある戦いの記録」の執筆も試みていたが、これらはいずれも未完のまま放棄された。 司法研修を終えたカフカは、母方の叔父アルフレートに推薦を頼み、1907年10月にイタリアの保険会社「アシクラツィオーニ・ジェネラリ(一般保険会社)」のプラハ支店に入社した。しかし、この伸び盛りの総合保険会社では、毎日10時間の勤務に加え、時間外労働と日曜出勤も加わる等の過酷な労働を強いられた。その為、入社数ヶ月で別の職場を探し始めている。1908年8月、有力者であったマックス・ブロートの父親に推薦を頼み、プラハ市内にある半官半民の「労働者傷害保険協会」に職場を移した。この職場では勤務時間が8時から14時までで昼食を取らずに働くという、当時のハプスブルク家の官僚体制で「単一勤務」と呼ばれていたシステムを取っていた。その為、残った午後の時間を小説の執筆に当てる事が出来た。入社に先立って、プラハ商業専門学校で労働者保険講座を受けている。この時の講師の一部は、労働者傷害保険協会の幹部であり、入社後にカフカの上司となった。この頃、事故による保険金支払いを抑制する為に、現在、工事現場等で使われている安全ヘルメットを発明した。 就職の前後の1908年3月、マックス・ブロートの仲介により、フランツ・ブライの編集する文芸誌『ヒュペーリオン』創刊号にカフカの作品が掲載された。この時発表したのは『観察』と題する小品8編である。ちなみに、カフカの文学作品が活字になったのは、これが初めてである。また、翌年の第8号にも『ある戦いの記録』から抜粋した2編の作品を載せている。この雑誌の寄稿者には他にカロッサ、デーメル、ホーフマンスタール、ムジール、リルケ等がいた。 この年、11月にブロートが友人を亡くした事をきっかけに彼との仲が深まり、1908年から1912年にかけてはブロートと連れ立って北イタリア、パリ、ヴァイマル等へ頻繁に旅行をしている。1909年にマックス・ブロートと彼の弟オットー・ブロートと3人で北イタリアへ旅行へ行った際には、その途上でブレシアの町の飛行機ショーを見物した。カフカは、この体験を元にルポルタージュ「ブレシアの飛行機」を執筆し、日刊紙『ボヘミア』9月26日朝刊に掲載している。これは飛行機についてドイツ語で書かれた最も早い文章の一つである。 1911年11月、カフカはガリツィアからやってきていたイディッシュ語劇団に興味を持ち、カフェで行われていた、この劇団の公演に毎日の様に足を運んだ。劇団のリーダーである青年イツハク・レーヴィとも親しくなり、彼を家に招いたり、また、公演の為に友人、知人に働きかけて便宜を図る等、公私に渡る深い関わりを持った。この交流は翌年の春、劇団がドイツへ旅立つまで続き、カフカがユダヤの民族性への意識に目覚めるきっかけとなった(#ユダヤ性についても参照)。
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