就職と召集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/14 20:56 UTC 版)
慶應水泳部では主将を務めた。また慶應在学中の1933年(昭和8年)の夏季休暇中のみ、地元江田島にあった海軍兵学校からの要請で同校の水泳教師となり、62期から64期学生の水泳指導を行ったという。期間中、実家から兵学校まで車の送迎があったという。海軍はその御礼として河石に複葉の水上練習機を贈り、河石はそれを母校の大古小学校に寄贈したという。 大学を卒業後、福澤家の紹介で大同電力へ入社した。水泳部に所属し後進の指導にもあたっていたという。1936年(昭和11年)第1回大阪実業団優勝水上競技大会において50m自由形・100m自由形と河石がアンカーに入った200mリレーの3種目で優勝、特に50m自では27秒0を出しその年度の国内ランキング6位に入っている。 1938年(昭和13年)3月25日から4月7日甲子園屋内プールで行われた全国中等学校選抜選手合宿練習において、河石が役員として名を連ねている。同年、陸軍に召集され広島を拠点とした歩兵第11連隊に配属、1939年(昭和14年)中国戦線に従軍する。この時期に将校になった(幹部候補生 (日本軍)#幹部候補生制度(甲乙種制)甲種集合教育)。5年間従軍し1942年(昭和17年)陸軍少尉で除隊した。 この間、大同電力は戦時統制により日本発送電に統合されており、除隊した河石は日本発送電に勤務する。1943年(昭和18年)10月結婚。
※この「就職と召集」の解説は、「河石達吾」の解説の一部です。
「就職と召集」を含む「河石達吾」の記事については、「河石達吾」の概要を参照ください。
- 就職と召集のページへのリンク