小鹿田焼とは? わかりやすく解説

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小鹿田焼

名称: 小鹿田焼
ふりがな おんたやき
芸能工芸区分 工芸技術
種別 陶芸
認定区分 保持団体認定
指定年月日 1995.05.31(平成7.05.31)
解除年月日
指定要件 一 陶土は、小鹿皿山採取され原土唐臼粉砕し手作業水簸乾燥させたものとし、単味使用すること。
二 成形は、蹴轆轤により、大物作りは、底打ち、練付、腰継ぎによること。
三 模様付けでは、伝承され刷毛目飛び鉋、櫛目、指描き打掛け、流掛け等の技法によること。
四 釉薬は、フラシ釉(透明釉)、地釉(飴釉)、セイジ緑釉)、薄セイジ、黒釉、ドーケとし、原料は、木灰藁灰長石錆石とし、調製伝承され方法により、施釉は、生掛け基本とすること。 
五 窯焚き焼成)は、伝承され登窯によること。
六 伝統的な小鹿田焼の作調等の特質保持すること。
備考
解説文: 小鹿田焼は、文禄・慶長の役後、九州渡来した朝鮮半島出身陶工による陶技が、筑前高取系の小石原【こいしわら】を経て現在の大分県小鹿皿山さらやま】に導入され定着したものと考えられ、その開窯宝永二年(一七〇五)と伝えられる以来明治時代末期まで、甕【かめ】、鉢、壼等の農家日用雑器を焼造してきた。
 その後昭和六年、民芸運動指導者であった柳宗悦やなぎむねよし】の来山により、その伝統的技法質朴雄勁作調賞揚され、同四十五年、国は小鹿田焼の技術記録作成等の措置を講ずべき無形文化財として選択している。以後今日まで伝統的製作工程による健全な作風堅持されており、主として地元産の原料用い原料製造・加工および作品製作にも伝統的な用具使用する伝統的かつ地域的特色有する技法が最も純粋に継承されている。
 以上のように、小鹿田焼は伝統的な陶芸技法なかでも工芸史上重要な地位占めとともに地方的特色顕著な工芸技術として極めて重要である。

小鹿田焼

名称: 小鹿田焼
ふりがな おんたやき
芸能工芸区分 工芸技術
種別 陶芸
選択年月日 1970.04.17(昭和45.04.17)
選択要件
備考
解説文:  小鹿田焼は、文禄・慶長の役後、九州渡来した朝鮮半島出身陶工による陶技が、筑前高取系の小石原【こいしわら】を経て現在の大分県小鹿皿山さらやま】に導入され定着したものと考えられ、その開窯宝永二年(一七〇五)と伝えられる以来明治時代末期まで、甕【かめ】、鉢、壼等の農家日用雑器を焼造してきた。
 その後昭和六年、民芸運動指導者であった柳宗悦やなぎむねよし】の来山により、その伝統的技法質朴雄勁作調賞揚され、同四十五年、国は小鹿田焼の技術記録作成等の措置を講ずべき無形文化財として選択している。以後今日まで伝統的製作工程による健全な作風堅持されており、主として地元産の原料用い原料製造・加工および作品製作にも伝統的な用具使用する伝統的かつ地域的特色有する技法が最も純粋に継承されている。
 以上のように、小鹿田焼は伝統的な陶芸技法なかでも工芸史上重要な地位占めとともに地方的特色顕著な工芸技術として極めて重要である。
 指定要件
 一 陶土【とうど】は、小鹿皿山採取され原土唐臼からうす】で粉砕し手作業水簸【すいひ】・乾燥させたものとし、単味使用すること。
 二 成形は、蹴轆轤【けろくろ】により、大物作りは、底打【そこう】ち、練付【ねりつけ】、腰継【こしつ】ぎによること。
 三 模様付けでは、伝承され刷毛目【はけめ】、飛【と】び鉋【がんな】、櫛目【くしめ】、指描【ゆびか】き、打掛【うちが】け、流掛【ながしが】け等の技法によること。
 四 釉薬は、フラシ釉(透明釉)、地釉【ぢぐすり】(飴釉)、セイジ緑釉)、薄セイジ、黒釉【こくゆう】、ドーケとし、原料は、木灰【きばい】、藁灰わらばい】、長石【ちようせき】、錆石【さびいし】、あかがね】とし、調製伝承され方法により、施釉生掛【なまが】けを基本とすること。
 五 窯焚き焼成)は、伝承され登窯のぼりがま】によること。
 六 伝統的な小鹿田焼の作調等の特質保持すること。
工芸技術のほかの用語一覧
陶芸:  丹波立杭窯  唐津焼  壷屋の荒焼  小鹿田焼  柿右衛門  楽焼  瀬戸丸窯

小鹿田焼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/30 23:48 UTC 版)

小鹿田焼の大皿。「飛びカンナ」と呼ばれる柔軟性のある金属製の薄いヘラで付ける削り文様が小鹿田焼の特徴の一つである。

小鹿田焼(おんたやき[1])は、大分県日田市の山あい、源栄町(もとえまち)皿山地区で焼かれる陶器である[2]江戸時代中期に始まり[2]、現在も機械を使わず手作りが続けられている[3]。小鹿田はこの集落の通称で、十数軒のうち、2024年時点で小鹿田焼の窯元が9軒ある[2]

その陶芸技法が1995年平成7年)に国の重要無形文化財に指定され、2008年(平成20年)3月には地区全体(約14ヘクタール)が「小鹿田焼の里」の名称で、池ノ鶴地区の棚田とともに重要文化的景観として選定されている[3](「文化財」も参照)。地元には市立の小鹿田焼陶芸陶芸館がある[4]

概要

小鹿田焼は、江戸時代中期の1705年宝永2年)若しくは1737年元文2年)に、江戸幕府直轄領(天領)であった日田の代官により領内の生活雑器の需要を賄うために興されたもので、山を隔てた現在の小石原(現在の福岡県)から招かれた陶工の柳瀬三右衛門と、彼を招いた日田郡大鶴村の黒木十兵衛によって始められた。元は、享和年間に小石原焼の分流の窯として開かれていたものであるという[5]。このため、小鹿田焼の技法は小石原焼の影響を強く受けている。

朝鮮登り窯を用い、飛び(カンナ)、刷毛目、描きなどの道具を用いて刻んだり、化粧土をかぶせたりしてつける幾何学的紋様を特徴とする[2]。飛び鉋は、時代の修式窯飛白文壺との類似が見られる。また、釉薬の使い方には打ち掛け、流し掛けなどといった技法が用いられ、原料によってセイジ(緑)、アメ(飴)、クロ(黒)が主である。

小鹿田では黄褐色の粘土が採れるが、陶土としては瀬戸焼愛知県)など他の陶器産地に比べ扱いづらい。掘り出した後に10日乾燥させて木槌で砕き、「唐臼(からうす)」と呼ばれるで20〜30日搗く。こうしてできた土粒に水を加え、何度も濾してにして、それを水抜きや天日または窯の熱による乾燥で2カ月かけて仕上げる。焼くと火ぶくれや変形しやすく、鉄分が多いため黒っぽくなるが、刷毛目や指描き、櫛描きによって付けられる文様および釉薬との相乗効果で「用の美」(柳宗悦)が現れる[3]ししおどしのように受け皿に溜まった水が受け皿ごと落ちる反動によって陶土を挽いており、「ギィ」「ドン」といった音を立てる[2]。このため「小鹿田皿山の唐臼」は1996年(平成8年)、「日本の音風景100選」の一つにも選ばれている[2]

各窯元は手作業の家族経営で、体力が必要な土練りや成型は男性が担い、女性は釉薬掛けや窯入れを担当することが多い[6]。各窯元の技法は後継者のみに伝承する一子相伝で受け継がれてきた[7]。唐臼の動力となる大浦川の水量、狭い山間部で窯を造れる用地、の確保、販路などのバランスで自然と生産規模が制約され、家族経営が続いてきた[3]

「日田もの」と呼ばれていたこの地の陶器を「小鹿田焼」と呼ぶよう薦めたのは、民藝運動を提唱した柳宗悦である。久留米(福岡県)の陶器店で見つけて惹かれ、1931年昭和6年)にこの地を訪れ、『日田の皿山』『手仕事の日本』で評価し、世に知らしめた[3]。民藝運動の賛同者で、日本の陶芸界に大きく名を残したイギリスの陶芸家バーナード・リーチも陶芸研究のため、1954年(昭和29年)[3]、1964年(昭和39年)に滞在して作陶を行ったことにより、小石原焼と共に小鹿田焼は日本全国や海外にまで広く知られるようになった。

2011年(平成23年)7月22日に大分県で8例目の地域団体商標に登録されている[8]

2017年(平成29年)7月の豪雨により、44基ある唐臼の6割以上が稼働不能となり、原材料となるも入手困難、陶土は前年の熊本地震による被害からの復旧工事が始まる直前にがけ崩れを起こして採掘不能、保存していた陶土の多くも流出するという壊滅的な被害となった[9]。その後、2019年令和元年)に窯元1軒が廃業して9軒になったが[6]、唐臼などの生産設備や作陶活動は復旧し、2018年(平成30年)からは「小鹿田焼民陶祭」を再開している[7]。2023年(令和5年)7月8日~9日にも豪雨で39基あった唐臼が流出や土砂流入といった被害を受け[10]、民陶祭が中止された[2]。2024年(令和6年)の民陶祭は、被災に先立つ新型コロナ禍による中断を含めて5年ぶりに開催された[11]

小鹿田焼の里の風景

窯元

窯元が10軒だった時期は、小石原村から招かれた陶工の子孫である柳瀬家が2軒、陶工招聘の資金を出した黒木家[3]の子孫が3軒、土地を提供した坂本家[3]の子孫が4軒、黒木家の分家である小袋家が1軒であった。集落の中心にある登り窯は近くの5軒が共同で使っている[2]

文化財

小鹿田焼の窯元は代々長子相続で技術を伝え、弟子を取らなかったため、小石原から伝わった伝統技法がよく保存されており、これが重要無形文化財に指定された大きな理由となった。現在9軒ある窯元は、全てが開窯時から続く柳瀬家、黒木家、坂本家の子孫にあたる。窯元は、共同で土採りを行ったり、作品に個人銘を入れることを慎んだり[3]するなど、小鹿田焼の品質やイメージを守る取り組みを行っている。窯元によって構成される小鹿田焼技術保存会は重要無形文化財の保持団体に認定されている。

また、窯元がある皿山地区と棚田が広がる池ノ鶴地区が重要文化的景観として選定されている[12]

脚注

  1. ^ 2位 小鹿田(大分県日田市)土つく音、薪燃える音…昔ながら日本経済新聞』2019年10月12日・土曜朝刊別刷り NIKKEI+1(1面)
  2. ^ a b c d e f g h 毎日新聞』朝刊2024年9月29日わたしのふるさと便・大分県【逸品オススメ】日田市「小鹿田焼」土地の恵みと技 連綿
  3. ^ a b c d e f g h i 【はじまりを歩く】小鹿田焼(大分県日田市)唐臼の音響く 一子相伝の里/陶土に2カ月 用の美を追求『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」 2020年10月10日6-7面(2020年10月23日閲覧)
  4. ^ 小鹿田焼陶芸陶芸館 日田市(2020年10月22日閲覧)
  5. ^ 唐橋世濟著『豊後国志』1803年(享和3年)
  6. ^ a b 「小鹿田焼窯」1軒、作陶終える 後継難に決断、窯元9軒に西日本新聞』朝刊2019年2月19日(2019年10月16日閲覧)
  7. ^ a b 「小鹿田焼民陶祭」豪雨復興アピール 日田市で開催 産経新聞ニュース(2019年10月13日)2019年10月16日閲覧
  8. ^ 小鹿田焼に本物の証し 特許庁に登録」『大分合同新聞』2011年9月29日
  9. ^ “唐臼ない、陶土ない…2年続きで被災、小鹿田焼悲鳴 民陶祭、見通し立たず”. 『西日本新聞』. (2017年8月3日). オリジナルの2017年8月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170803135240/https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/348075/ 
  10. ^ [やきもの界ニュース]小鹿田焼産地では唐臼にダメージ、民陶祭が中止」『陶説』2023年8月号(日本陶磁協会)
  11. ^ 日田市の小鹿田焼の里で「民陶祭」始まる 5年ぶり、多くの陶芸ファンでにぎわう 大分合同新聞プレミアムオンライン(2024年10月12日)2024年10月31日閲覧
  12. ^ 2008年に皿山地区と池ノ鶴地区約14ヘクタールが選定され、2010年には周囲の山林約225ヘクタールが追加選定されている。

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