安否・目撃情報
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 08:26 UTC 版)
2002年10月に帰国した拉致被害者たちの証言によれば、田口八重子は、1978年9月から1979年11月まで浜本富貴恵と同じ平壌市内の招待所で暮らした。招待所の指導員は、同時期に田口八重子の朝鮮名を「高恵玉(コ・ヘオク)」、富貴恵の朝鮮名を「李英玉(リ・ヨンオク)」とつけたという。富貴恵は田口八重子の印象について「おない年だったので気があって、楽しく生活することができた。背が高くて、外見は大人っぽく見えたが、寂しがり屋で甘えん坊だったような気がする」と話している。なお、八重子が金賢姫の日本人化教育係として「李恩恵」の仮名を用いていたことについては、その名前は自分は「知らなかった」と述べた。しかし、1981年から1983年にかけて、八重子が「オッカ」という北朝鮮の女性工作員に日本語を教えていたことを証言している。 その後、富貴恵は福井県小浜市で一緒に拉致された地村保志と結婚し、1979年11月に中和郡忠龍里に移った。彼女の証言によれば、北朝鮮に拉致されていた際、八重子は「子どもが日本にいるから帰してほしい」と訴えたという。また、工作員となって海外に渡り、日本大使館に駆け込むことも計画していたが、北朝鮮側に工作員にはなれないと言われ、断念したとされている。その後、1981年7月から1983年3月にかけて金賢姫の日本人化教育係を務めたのは、金賢姫の証言のとおりである。 帰国被害者たちは、1985年1月前後、忠龍里一地区3号招待所に田口八重子、横田めぐみ、金淑姫の3人が同居しているのを見かけている。金淑姫は横田めぐみが日本語を教えていた北朝鮮工作員である。その後、スッキ(淑姫)がいなくなり、田口八重子と横田めぐみの2人が一地区3号招待所で暮らしていた。八重子はしばしば地村家や蓮池家を訪ね、子どもたちをかわいがっていた。八重子は自分があおむけになって寝そべり、小さな子どもたちの両手両足を自分の手足に乗せて持ち上げて飛行機遊びをしてくれるので「飛行機おねえさん」と呼ばれていたという。 1985年末に、同じ忠龍里の一地区から二地区に移動させられ、二地区3号招待所に田口八重子と横田めぐみ、二地区4号に地村一家、二地区6号に蓮池一家が住み、1号には小太りの日本人らしき中年男性、5号には高校生のとき韓国から拉致されてきた金英男が住んでいた。1986年春頃に八重子が腰痛で915病院に入院、めぐみのところに金英男が通い彼女から日本語を習った。その後、蓮池家は5号に移り、八重子は退院後、3号で一人暮らしをしていた。1986年7月、蓮池一家は龍城区域43号招待所に引っ越した。そこで、サンメ地区招待所から数日間来ていた金賢姫の世話係だった女性に会い、「田口八重子が『敵工区』で結婚するらしい」という話を聞いた。 北朝鮮の元対外連絡部指導員の手記によれば、八重子は1986年7月から1991年10月まで、烽火政治軍事大学で講師をしていたが、頻繁に脱出を試み、周辺にも自分の身分を語り、アルコール中毒にかかっていたので、1996年頃からは平壌市順安区域の文化部所属の招待所で外出禁止、隔離されて生活しているという。 その後の安否はほとんど不明である。2000年と2009年、日本政府は彼女の生存を信じるというコメントを発している。なお、『朝鮮日報』の伝えるところによれば、韓国の情報機関が数十人の韓国人と日本の拉致被害者が平安南道平原郡元和里に移動させられたことを報告している。元和里招待所はもともと韓国に送られた工作員の訓練施設として使用されていたが、1990年代以降北朝鮮は工作員の数を減らしたので、拉致被害者のための施設に変わったという。このなかに、田口八重子が含まれている可能性もなくはない。
※この「安否・目撃情報」の解説は、「田口八重子」の解説の一部です。
「安否・目撃情報」を含む「田口八重子」の記事については、「田口八重子」の概要を参照ください。
安否・目撃情報
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 15:00 UTC 版)
蓮池祐木子(旧姓:奥土)の証言によれば、蓮池祐木子と増元るみ子の2人は1978年秋から1979年10月25日まで約1年間、平壌中心部や郊外の招待所を転々としながらともに生活した。るみ子が拉致されて工作船で北朝鮮に連れてこられたとき、工作員に抱えられて下船するほど衰弱していたという。招待所では「るみちゃん」「祐木子ちゃん」と互いに呼び合い、長身のるみ子は招待所の職員からは「大きい先生」と呼ばれていた。2人とも「逃げたら軍が捕まえる」と脅された上で、「相手(恋人)はもう日本に返した」とだまされてから、「ここで私は生きていかなければならない」と覚悟したという。 蓮池は、るみ子の印象について「背が高くてスマート、おだやかな性格で優しかった」と振り返っている。また、当初はずっと泣いており、洋服ダンスのなかでも泣いていたという。2人で生活するようになってからは、招待所のベランダに出て外を眺めながら「帰りたいねえ」とお互い話したが、拉致直後にたくさん泣いたので招待所で泣くことはなかったという。るみ子が鹿児島ではよく作り、父の正一が好きだったスイカの皮の漬物を作ったことをよく覚えており、卓球が上手だったこと、朝鮮語の歌を上手に歌ったことを蓮池はよく記憶している。北朝鮮側は、るみ子と市川修一が1979年7月に結婚して、市川が同年9月に死亡したと日本側に説明したことがあるが、その説明は蓮池の手紙と矛盾しており、北朝鮮側の説明に虚偽がまじっていることが浮き彫りとなった。 2012年に蓮池祐木子から増元照明にあてた手紙を分析した惠谷治の解説によれば、るみ子は、おそらくは鹿児島から南浦連絡所に連れていかれ、最初は、平壌のおそらく興富招待所に入居させられたものと推測される。そして翌年になって冷泉招待所に移され、最後は、春ごろに順安招待所に移らされたが、このように頻繁に居所を移動させることについては自分の位置を悟らせない意識が北朝鮮側にはたらいているものと推測される。蓮池祐木子は、招待所の賄い婦から「あなたの知っている日本人(るみ子)に子供が生まれた」という話を聞いており、るみ子には子供が2人いたという噂も聞いた。 安明進が増元るみ子を目撃したのは、1988年から1990年にかけて、工作員養成機関の金正日政治軍事大学においてであり、身長160センチメートルくらい、年齢は30代半ばから後半くらいにみえ、髪はパーマ、靴はローヒール、横田めぐみや加藤久美子と一緒におり、既婚者という印象を受けたという。
※この「安否・目撃情報」の解説は、「増元るみ子」の解説の一部です。
「安否・目撃情報」を含む「増元るみ子」の記事については、「増元るみ子」の概要を参照ください。
- 安否・目撃情報のページへのリンク