安史の乱までとは? わかりやすく解説

安史の乱まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/15 22:12 UTC 版)

藩鎮」の記事における「安史の乱まで」の解説

唐は太宗時代大幅に領土広げ、その領土都護府羈縻政策府兵制鎮兵制度をもって維持していた。鎮兵には兵が多く用いられ、主に西北方面辺境防衛のために置かれたが、玄宗時代になると、従来府兵制上手く行かなくなり辺境以外にも藩鎮設置された。 府兵制が行詰まった背景としては、基になった北魏兵制では兵の担い手部族制の下で集団生活を行う牧畜民であったに対して、唐の府兵制定住して田を耕作する農民が兵を兼ねたため、年間3ヶ月軍事訓練与え農業への負担大きく、また郷里家族から離れて任務就いたため士気低く戦闘弱かった点が挙げられるまた、辺境への赴任白居易の『新豊折臂翁』に代表される兵役拒否も生み、負担に耐えかねて逃亡(逃戸)し本籍地離れた土地貴族囲われ奴婢となる良民もいた。節度使駐屯軍将軍とその地方財政官を兼ね任地税収を軍の糧秣兵士雇用に使う制度で、初め異民族対策として西北方面中心に10節度使設けられた。 710年河西節度使設置初めとして10節度使設置された。駐屯する兵士は、徴兵制たる府兵制によって集められるではなく募兵制である長征健児制によった兵士辺境屯田行い国家から給料として絹と銅銭支給された。 節度使名治所設置目的設置兵力安西 亀茲 天山南路防衛西突厥 710年 24000 北庭 庭州 天山北路 712年 20000 河西 涼州 吐蕃突厥連携阻止 710年 73000 朔方 霊州 突厥 721年 64700 河東 太原 突厥 711年 55000 范陽 幽州 奚・契丹 713年 91400 平盧 営州 室韋靺鞨 719年 37500 隴右 鄯州 吐蕃 713年 75000 剣南 成都 吐蕃吐谷渾 714年 30900 嶺南五府経略使 広州 夷獠 711年 15400 節度使安西北庭・平盧の長城節度使それ以外長城節度使分けられる長城節度使には武人将(異民族出身将軍)が就けられ、長城節度使には中央から派遣され文官が付くのが当初方針であり、節度使宰相へ登るためのエリートコースとされていた。しかし玄宗重用され宰相李林甫政敵出現恐れて宰相なれない将を積極的に節度使として登用した。安禄山玄宗寵愛を受け、742年に平盧節度使となり、更に范陽河東兼任した

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