安史の乱と最期とは? わかりやすく解説

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安史の乱と最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 17:36 UTC 版)

楊貴妃」の記事における「安史の乱と最期」の解説

馬嵬駅の悲劇」も参照 天宝14載(755年)、楊国忠激しく対立した安禄山反乱起こし洛陽陥落した安史の乱)。この時、玄宗親征決意し太子李亨(後の粛宗)に国を任せることを画策したが、楊国忠韓国夫人虢国夫人説得受けた楊貴妃は土を口に含んで自らの死を請い玄宗思いとどまらせたと伝えられるその後、唐側の副元帥である高仙芝処刑され哥舒翰代わりに元帥となり、潼関守った。 翌天宝15載(756年)には哥舒翰安禄山側に大敗し捕らえられ潼関陥落した6月玄宗首都長安抜け出し地方出奔することに決め楊貴妃楊国忠高力士李亨らが同行することになった。 しかし、馬嵬現在の陝西省咸陽市興平市)に到着すると、乱の原因となった楊国忠強く憎んでいた陳玄礼兵士達楊国忠韓国夫人たち殺害した。さらに陳玄礼らは玄宗に対して、「賊の本」として楊貴妃殺害することを要求した玄宗は「楊貴妃深宮にいて、楊国忠謀反とは関係がない」と言ってかばったが、高力士進言により、やむなく楊貴妃自殺命ずることを決意した。 『楊太真外伝』によると、楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んで恨まない最後に仏を拝ませて欲しい」と言い残し高力士によって縊死させられた。この時、南方から献上ライチ届いたため、玄宗はこれを見て改め嘆いた伝えられている。陳玄礼らによって、楊の死が確認され遺体郊外埋められた。さらに安禄山楊貴妃の死を聞き数日泣いた伝えられるその後馬嵬に住む女性楊貴妃の靴の片方手に入れ旅人見物料を取って見せて大金持ちになった伝えられる玄宗は後に彼女の霊を祀り長安帰った後、改葬命じたが、礼部侍郎李揆からの反対意見により中止となった。しかし、玄宗密かに宦官命じて改葬させた。この時、残っていた錦の香袋宦官献上したという。また、玄宗画工に彼女の絵を描かせ、それを朝夕眺めていたという。

※この「安史の乱と最期」の解説は、「楊貴妃」の解説の一部です。
「安史の乱と最期」を含む「楊貴妃」の記事については、「楊貴妃」の概要を参照ください。

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