李揆
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李 揆(り き、711年 - 784年)は、唐代の官僚・政治家。字は端卿。本貫は隴西郡成紀県[1][2]。
経歴
秘書監の李成裕(李亶の子で、李玄道の子の李正基の孫)の子として生まれた。若くして聡明俊敏で学問を好み、文章を作るのを得意とした。開元末年に進士に及第し、陳留県尉に任じられた。宮中に書を献上して、中書で文章を試験されて、右拾遺に抜擢された。右補闕・起居郎となり、司勲員外郎・考功郎中に転じ、知制誥をつとめた。玄宗が蜀に避難するのに従い、中書舎人に任じられた[1][2]。
乾元元年(758年)[3]、広平王李俶が成王に改封されると、張皇后の子を皇太子に立てようとする動きがあった。粛宗が成王李俶を皇太子に立てる意志を示すと、李揆は「社稷の福、天下幸甚」といって賛同した。乾元2年(759年)2月、張皇后に「翊聖」の尊号を加えようという百官の請願があった。李揆が韋皇后の前例を挙げてこれに反対すると、取りやめになった。まもなく李揆は礼部侍郎を兼ねた。3月、中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)となり、集賢殿崇文館大学士・修国史をつとめた[4][5]。
ときに長安に盗賊や殺人が多かったため、李輔国が羽林騎士500人を選抜して警備に当たらせるよう請願した。李揆は羽林に金吾の代わりをやらせては、非常事にあたることができないといって反対した。このため羽林の警備の件は取りやめになった[6][7]。
上元2年(761年)2月[8]、李揆は呂諲に弾劾されて、袁州長史に左遷された。数年後、歙州刺史に転じた。かつて李揆は侍中の苗晋卿が元載を推薦したのを退けて、元載に憎まれていた。元載が宰相となると、李揆は秘書監に試用され、江淮で病身を養った。十数年のあいだ、地方の官を転々とした。大暦12年(777年)、元載が処刑されると、李揆は睦州刺史となった。大暦14年(779年)、入朝して国子祭酒に任じられた。建中4年(783年)、礼部尚書に任じられ、盧杞に憎まれた。興元元年(784年)、徳宗が梁州に避難すると、李揆は吐蕃との会盟の使節に派遣されることになり、尚書左僕射を加えられた。4月、道中の鳳州で病没した。享年は74。司空の位を追贈された。諡は恭といった[9][10]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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