李撝
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李 撝(り き、生年不詳 - 724年)は、唐の皇族。睿宗の次男。申王。恵荘太子。もとの名は成義[1][2]。
経歴
睿宗と柳氏(柳奭の子の柳爽の娘)のあいだの子として生まれた。母の柳氏は身分が低かった。成義が生まれたとき、武則天が僧の万回に見せると、万回は「この児は西域の大樹の精です。ほかの兄弟と同等に養うべきでしょう」といった。武則天は喜んで、成義をほかの兄弟に次ぐ序列で扱った。垂拱3年(687年)、成義は恒王に封じられた[1][2]。長寿2年(693年)、衡陽郡王に改封され[3][4]、尚衣奉御に任じられた。神龍元年(705年)、司農寺少卿に転じ、銀青光禄大夫の位を加えられた。景雲元年(710年)6月、睿宗が重祚すると、成義は申王に進封され、右衛大将軍となった。7月、殿中監に転じ、検校右衛大将軍を兼ねた。景雲2年(711年)、光禄寺卿・右金吾衛大将軍に転じた。先天元年(712年)8月、行司徒となり、益州大都督を兼ねた。開元2年(714年)、司徒のまま豳州刺史を兼ねた[1][5]。開元4年(716年)、昭成太后の諡号を避けるため、成義は撝と改名した[6]。李撝は鄧州刺史・虢州刺史・絳州刺史を歴任した。開元8年(720年)、入朝して、刺史を退任し、以前の官である司徒とされた。李撝は度量が広く、容姿は丸っこく、飲み食いを良くした。開元12年(724年)11月、病没した。恵荘太子の位を追贈され、橋陵に陪葬された[7][8]。
男子がなく、李憲の子の李珣が同安郡王として養子となったが、先に死去した。天宝3載(744年)、また李憲の子の李璹が申王の位を嗣ぎ、鴻臚寺卿に任じられた[7][8]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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