安史の乱の影響
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唐では節度使である安禄山と史思明による安史の乱が発生すると、その影響は渤海にまで及ぶこととなった。安禄山は平盧節度使として渤海・黒水など4府の経略使の職務を兼任していたが、当時の官制では渤海都督府の上部機構であり、安史の乱は渤海の上部機構による叛乱であった。この叛乱は渤海に波及することを恐れた文王は西部国境に大軍を配すと共に、日本とも連絡を取り事態の対応に当たった。 大興18年(755年)、安禄山の燕軍は唐の東都である洛陽を占拠し、やがて潼関を通過して長安に至った。これにより玄宗は四川へと逃れたが、一連の戦闘の影響を受け営州地域は乱れ、渤海と唐の交通が寸断される事態となり、この前後4年間、唐側の記録からは渤海入貢の記録は姿を消した。 これに対し唐は地方機関より2度使者を渤海に派遣している。最初は大興19年(756年)秋に平盧後(節度使の代行)である徐帰道による使節であり、渤海に対し反乱鎮圧のための兵の出兵を求めるものであった。この時は徐帰道が唐に背き安禄山に走ったことを知り出兵は見送られている。また大興20年(757年)には、権知平盧節度使の王玄志が皇帝勅書を奉じて将軍の王進義を派遣した。当時玄宗は四川に逃れ、太子の李亨が霊武郡で即位し、長安及び洛陽の回復を計画していた時期に相当し、これに関連した使節派遣であると推察される。しかしこの際も文王は慎重な態度を取り具体的な行動を起こさなかった。 安史の乱に際して渤海は燕に呼応することや、混乱に乗じて勢力拡大を行なうことを避け極めて慎重な行動を取り、一貫して唐を支持していた。これは安史の乱平定後の大興22年(759年)に楊方慶を唐に入朝させ、翌年の正月を賀している行動が一つの傍証と考えられている。また唐も大興25年(762年)に文王を渤海郡王から渤海国王に変更しており、このことからも渤海と唐の叛乱期間中の良好な関係が推察される。
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