安史の乱の影響とは? わかりやすく解説

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安史の乱の影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 16:29 UTC 版)

大欽茂」の記事における「安史の乱の影響」の解説

唐では節度使である安禄山史思明による安史の乱発生すると、その影響渤海にまで及ぶこととなった安禄山は平盧節度使として渤海黒水など4府の経略使職務兼任していたが、当時官制では渤海都督府の上機構であり、安史の乱渤海の上機構による叛乱であった。この叛乱渤海波及することを恐れた文王西部国境大軍配すと共に日本とも連絡取り事態の対応に当たった大興18年755年)、安禄山の燕軍は唐の東都である洛陽占拠し、やがて潼関通過して長安至った。これにより玄宗四川へと逃れたが、一連の戦闘の影響を受け営州地域乱れ渤海と唐の交通寸断される事態となり、この前4年間、唐側の記録からは渤海入貢記録姿を消した。 これに対し唐は地方機関より2度使者渤海派遣している。最初大興19年756年秋に平盧後(節度使代行)である徐帰道による使節であり、渤海対し反乱鎮圧のための兵の出兵求めるものであった。この時は徐帰道が唐に背き安禄山走ったことを知り出兵見送られている。また大興20年757年)には、知平盧節度使王玄志が皇帝勅書奉じて将軍王進義を派遣した当時玄宗四川逃れ太子李亨霊武郡即位し長安及び洛陽回復計画していた時期相当し、これに関連した使節派遣であると推察される。しかしこの際文王慎重な態度取り具体的な行動を起こさなかった。 安史の乱に際して渤海は燕に呼応することや、混乱乗じて勢力拡大行なうことを避け極めて慎重な行動取り一貫して唐を支持していた。これは安史の乱平定後の大興22年759年)に楊方慶を唐に入朝させ、翌年正月賀している行動一つ傍証考えられている。また唐も大興25年762年)に文王渤海郡王から渤海国王に変更しており、このことからも渤海と唐の叛乱間中良好な関係が推察される。

※この「安史の乱の影響」の解説は、「大欽茂」の解説の一部です。
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