大津市長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/11 16:17 UTC 版)
1980年4月15日、大津市長の山田耕三郎が参院選出馬のため辞職。同年6月6日に後継者に指名され、全政党の推薦を受けて無投票で初当選。助役に市企画財政室長の中野久雄、収入役に同市民部長の疋田龍雄が就任した。1984年5月27日にまた無投票で再選した。1988年に「市民を裏切った」として共産党と決別、同年から92年、96年の市長選で3度にわたって共産党候補と一騎討ちとなったが、山田はすべて勝利した。 山田は市長として、「市民の心を心とする市政」を信条とし、「人間性の尊重」「市民自治の確立」「環境の保全と創造」の基本理念に10の政策を合わせた「三つの理念と10の政策」をスローガンにした。道路、駅や下水道や産廃施設などのインフラストラクチャー整備、老人ホームなど地域福祉施策、小中学校の整備などを行った。また、世界水フォーラムや日本女性会議などの誘致も行った。 山田は非常に高齢で、あまりにも多選されたため多くの議論となった。山田が在任中に何度も、市長選挙では最低投票率が更新された。長期市政を支えた市の自治会との癒着も議論を呼んだ。特に市政を支え続けた、自治連合会長の山本俊一とは「刎頚の友」と呼ばれた。 1998年8月、「大津市と長春市との友好都市交流および長春中日友好会館建設に貢献」を理由として長春市名誉市民に表彰される。 1999年には市制百周年を花道に、「21世紀の橋渡し」として引退するとしていた。市議会の与党会派も勇退勧告を出していた。しかし、翌年1月には考えを捨てて出馬を決意。すでに県庁所在地の市長で最高齢になっていた、2000年の選挙に出馬して6選した。 2003年10月に両ひざ関節炎で入院した後、12月24日に健康不良を理由に引退を宣言した。12月26日付で辞職。2004年5月予定の次期市長選挙は1月に前倒しとなり、後任には自公推薦の目片信が当選した。
※この「大津市長」の解説は、「山田豊三郎」の解説の一部です。
「大津市長」を含む「山田豊三郎」の記事については、「山田豊三郎」の概要を参照ください。
大津市長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 15:04 UTC 版)
「大津市中2いじめ自殺事件」の記事における「大津市長」の解説
大津市の越直美市長は、2012年7月6日の定例会見で、学校と教育委員会の調査が不十分であったことを認め、再調査を明言した。その後、遺族推薦の委員含む第三者調査委員会を市長直轄として立ち上げ、徹底した原因調査に取り組んだ。これにより市長に不信感を抱いていた遺族も、越市長の対応に感謝と信頼を示した。 第三者調査委員会の報告書を受け、市長部局としていじめ対策推進室を新設、常設第三者機関として、大津の子どもをいじめから守る委員会を設置 等、積極的な教育改革に取り組んでいる。 県教育委員会による担当の教師についての処罰が、僅か数万円の減給1カ月間のみに終わったことについて強い不快感を表明し、教育委員会に対しても改めて不信感を表明した。また、教員の処分を始めとする人事上の任免権を県の教育委員会が持っており、行政が関与できない制度は問題があるという見解を表明した。 教職員の処分が甘すぎるという大津市長の指摘に対して、河原恵滋賀県教育長や嘉田由紀子滋賀県知事は、相応の処分だと反論した。 越市長は事件後に市長に就任した視点から事件を振り返り、第三者調査委員会を立ち上げる経緯、そして大津市の新たな取組み、教育委員会制度の問題点等を著書『教室のいじめとたたかう 大津いじめ事件・女性市長の改革』にまとめ、巻末に遺族が寄稿し、越市長はいじめ問題の日本全国の先頭を切って問題解決に取り組んでいると評価し、教育行政の改革の同志であるとしている。
※この「大津市長」の解説は、「大津市中2いじめ自殺事件」の解説の一部です。
「大津市長」を含む「大津市中2いじめ自殺事件」の記事については、「大津市中2いじめ自殺事件」の概要を参照ください。
- 大津市長のページへのリンク