大津宮と崇福寺とは? わかりやすく解説

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大津宮と崇福寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 14:43 UTC 版)

崇福寺跡」の記事における「大津宮と崇福寺」の解説

明治43年喜田貞吉大津宮所在地について郷土史家であった木村一郎の説を一部取り入れて大津遷都考』を発表地元の伝承元に滋賀里山中遺跡現在の崇福寺跡。以下同じ)を崇福寺跡とし、その南東滋賀里太鼓塚・の内近辺大津宮とする説を発表した。この説を拠り所として大正4年大正天皇御大典紀念事業として地元有志により滋賀里山中遺跡南尾根崇福寺旧址記念碑現存)が建設された。また同時期に南滋賀白鳳期の瓦や塔心礎がある廃寺跡が知られていたが喜田はこれを梵釈寺跡とした。大正末期ごろから『滋賀縣史』を編纂作業進めていた牧信之助喜田の説を支持したうえで、桓武天皇大津宮跡地梵釈寺建立した推測し南滋賀遺跡について「梵釈寺跡=大津宮内の仏殿跡」説を発表する。これに対し梅原末治白鳳期の瓦が出土する南滋賀遺跡崇福寺跡とする方が自然であると主張したこのような論争受けて滋賀県南滋賀遺跡滋賀里山中遺跡大津関連遺跡として調査計画昭和3年から4年にかけて肥後和男調査委員として第一次発掘調査を行う。この調査により滋賀里山中遺跡3つの尾根にまたがる事などが明らかにされたが、出土品として平安時代遡るものは発見されなかった。白鳳期の瓦が出土しない事について肥後は『扶桑略記』に檜皮葺とある事から従来の説矛盾しないとしたうえで、北尾根中尾根伽藍配置が『扶桑略記』の記載酷似することや瓦積基壇から崇福寺跡比定した。この発掘調査結果により滋賀県南滋賀遺跡志賀宮阯伝承地滋賀里山中遺跡崇福寺伝承地と仮指定する一方で梅原などの一部考古学者には、瓦編年軽視すべきでなく滋賀里山中遺跡白鳳時代遡りえないとする意見も根強かったそうした中で皇紀2600年記念事業として天智天皇主祭神とする近江神宮造営勅許下り天智天皇聖蹟確定しようとする機運が再び高揚滋賀県大津宮所在地論争終止符を打つべく昭和13年から14年にかけて南滋賀遺跡について第二次発掘調査実施調査委員柴田實で、指導員として梅原参加した。その調査最中滋賀里山中遺跡中尾根北側崖崩れがおき、近隣住民土砂の中から白鳳期の瓦と塼仏発見。この一報受けて第二次発掘調査滋賀里山中遺跡でも行われることとなった。この調査によって第一次調査では失われたとされていた塔心礎地中から発見され舎利容器出土した。また伽藍跡正確な測量行い南尾根建物北尾根中尾根建物方位微妙にずれている事が明らかになり、異な寺院である可能性指摘された。これらの調査結果から梅原自説撤回し滋賀里山中遺跡白鳳時代遺跡であり崇福寺跡とする説を追認した。また南滋賀遺跡から出土する白鳳期の瓦について柴田は、大津宮廃都から梵釈寺建立の間に逸名の白鳳時代前身寺院があったとする説でこれを説明し引き続き南滋賀遺跡について「梵釈寺跡=大津宮」説を取った。これらの調査受けて昭和16年滋賀里山中遺跡崇福寺跡として国史跡指定された。

※この「大津宮と崇福寺」の解説は、「崇福寺跡」の解説の一部です。
「大津宮と崇福寺」を含む「崇福寺跡」の記事については、「崇福寺跡」の概要を参照ください。

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