大戦と革命
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「ニコライ2世 (ロシア皇帝)」の記事における「大戦と革命」の解説
「ロシア革命」を参照 1914年6月、サラエヴォ事件が起き、7月28日にオーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦を布告すると、ロシア軍部は戦争準備を主張し皇帝へ圧力を掛けた。ニコライ2世とドイツ皇帝ヴィルヘルム2世との間の電報交渉は決裂し、彼は第一次世界大戦拡大の要因の一つといわれるロシア軍総動員令を7月31日に布告して、汎スラヴ主義を掲げて連合国として参戦、ドイツとの戦端を開いた。開戦によりドイツ語風の名をもつ首都サンクトペテルブルクも、これをロシア語に訳したペトログラードと改められた。しかしタンネンベルクの戦いでは、敵の3倍近い兵力を有していながら1個軍(20万人相当)を喪失するという壊滅的な敗北を経験した。 さらに1915年春には、兵装や輸送・通信システムなどにおいて先進的な近代機器を擁するドイツに対して相次ぐ大敗を喫し、戦況が悪化した同年夏には「大退却」を余儀なくされる。同年9月5日、皇帝はラスプーチンの予言もあって、ほとんどの閣僚が反対したにも関わらず、従叔父にあたる最高司令官ニコライ・ニコラエヴィチ大公を罷免し、自ら前線に出て最高司令官として指揮を執った。しかし、これは他の連合国から信頼の厚かったニコライ大公に代わるもので、現場では必ずしも好評ではなかった。ただし、1916年6月に敵国ドイツを参考に浸透戦術を用いたブルシーロフ攻勢では、オーストリア=ハンガリー帝国軍を主力とした相手に辛くも勝利をつかんでいる。 親征のため皇帝不在の首都ペトログラード(ペテルブルク)では、ニコライ2世から後を託されたアレクサンドラ皇后とラスプーチンが政府を主導していたが、気に入らない人物を次々に罷免するなど失政が目立った。このため人気のなかった2人に対して、貴族から民衆までが、彼らの出自を揶揄した「ドイツ女」「怪物」と蔑んで憎悪の対象とした。皇后とラスプーチンの肉体関係さえ噂され、皇族の権威はさらに失墜した。 ロマノフ家に対する批判的機運が高まったことから、保守派は帝政を救おうとしてニコライ2世の譲位を画策した。1916年12月、ラスプーチンは皇帝の従弟にあたるドミトリー大公や姪の夫ユスポフ公らによって暗殺され怪死を遂げるが、それでも皇帝は孤立の度合いを深めるばかりであった。 1917年1月には、改善しない戦況と物資不足に苦しんだ民衆が蜂起した。これには軍隊の一部も反乱に合流し、ロシア全土が大混乱に陥った。前近代的な社会体制からくる矛盾をついに克服できなかった帝政ロシアにとって、近代的な総力戦を継続することは既に限界に達していたのである。
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大戦と革命
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「チェルヴォナ・ウクライナ (軽巡洋艦)」の記事における「大戦と革命」の解説
アドミラール・ナヒーモフの建造は、1913年10月18日、ウクライナ南部の都市ニコラーエフ(ムィコラーイウ)のルッスード造船所で開始された。進水は、第一次世界大戦開戦後の1915年10月25日に行われた。この時期、ルッスードの船台にはアドミラール・ナヒーモフを含め4 隻の同型艦が並んでいた。しかし、戦局の混乱によりこれらの建造は徐々に遅れ始めた。 さらに追い討ちをかけたのが、1917年2月に始まったロシア革命であった。最初の二月革命では、皇帝が退位し臨時政府が樹立された。10月にはボリシェヴィキによる十月革命が勃発した。この年の末までにアドミラール・ナヒーモフの建造は90 %が仕上がっており、武装以外についてはすべて事実上の完成状態にあったといわれる。しかし、一連の革命とその後のロシア内戦によりその建造は著しく遅れるようになった。 二月革命後、アドミラール・ナヒーモフの所属は臨時政府の黒海艦隊となっていたが、それにも拘らず、1917年内にはウクライナの国旗を掲げていた。この背景には、当時、黒海艦隊の勤務者の大半をウクライナ人が占めていたということがあった。
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