大戦の概略とその結果
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「近代から現代にかけての世界の一体化」の記事における「大戦の概略とその結果」の解説
詳細は「第二次世界大戦」を参照 1938年3月、ドイツ民族統合を唱えるナチスはアンシュルスを断行してオーストリアを併合し、同年9月には、ドイツ人の多く住むチェコスロヴァキアのズデーテン地方の割譲を要求した。イギリスのネヴィル・チェンバレン首相は宥和政策による解決をはかり、ミュンヘン会談(英独仏伊の4国首脳会談)をひらいてチェコスロヴァキア代表が不参加のままズデーテンのドイツ割譲を認めた。しかし、ヒトラーはこれに満足せず、翌年チェコスロヴァキアを解体、ボヘミアとモラヴィアを保護領に、スロヴァキアを保護国にした。さらにポーランドにもダンツィヒ(グダニスク)の返還などを要求した。 英仏両国は宥和政策の限界を悟り、軍備拡張を急いでポーランドとギリシアの安全保障を約束した。英仏はソ連とも軍事同盟の交渉にはいったが、スターリンはナチス・ドイツとの提携に転じて1939年8月末に独ソ不可侵条約を結んで世界に衝撃を与えた。9月1日、これに力を得たドイツがポーランド侵攻を開始、英仏がただちにドイツに宣戦して第二次世界大戦がはじまった。 開戦後すぐに、ドイツ軍はポーランドを壊滅させ、ソ連とともに分割するなど東部戦線はこの2か国が圧勝した。一方の西部戦線では、1940年4月にドイツがデンマーク、ノルウェーを攻撃したことで英仏軍が動き始めた。同年6月にはドイツがパリを占拠してフランスが降伏し、その直前にはイタリアがドイツ側に立って参戦した。中部フランスにはヴィシー政権が成立した。北部フランスを占領したドイツは、イギリス本土を空爆してイギリス上陸作戦を立てたが、バトル・オブ・ブリテンでのイギリス空軍はレーダーの活躍もあってドイツ空軍をよせつけなかった。 日本では、阿部信行内閣がドイツとの軍事同盟締結は米英との対立激化を招くとして欧州大戦への不介入方針を掲げていたが、日中戦争の泥沼化に苦戦しており、米英ソが中国を援助したために孤立していた。1940年8月には現状打破のためにフランス領インドシナに進駐(仏印進駐)し、松岡洋右らの親独派が中心となって同年9月に日独伊三国軍事同盟、さらに翌41年4月には日ソ中立条約を結んだ。 ここで日本にとって誤算だったのは、これにより「日独伊ソ」の4国同盟関係が成立し、その力をもってすれば日米交渉も有利にまとまるであろうと考えたことである。しかし、イギリス上陸を断念したドイツはソ連に宣戦して独ソ戦を開始し、アメリカは日本の南方進出を牽制して日本への石油供給を停止して、極東においてイギリス・中国・オランダとの提携を強めた(ABCD包囲網)。そのため、日本は1941年12月真珠湾攻撃によって米英に戦闘を開始して太平洋戦争に突入した。独伊もアメリカに対して戦争を開始した。その後、1943年2月、ロシア内陸部のスターリングラード攻防戦で連合軍がドイツ軍を破り、これが第二次世界大戦全体の転機となって同年9月にイタリアが無条件降伏、1945年5月8日にはドイツも無条件降伏した。 1942年のミッドウェー海戦を境に敗色が濃くなり、1944年のサイパンの戦い以後は制空権を失った日本は米軍の本土空襲にさらされながらも粘っていた。1945年7月、米英中の3国は日本の降伏を促すポツダム宣言を発表したが、日本はこれを無視したため、アメリカ軍は原子爆弾を8月6日広島に、8月9日長崎に投下した。8月14日には日本はポツダム宣言を受諾し、9月2日にはポツダム宣言に調印して、第二次世界大戦はここに終結した。
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