大戦と計画の変更
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/04 01:24 UTC 版)
第二次世界大戦中の1940年、ヴェーザー演習作戦後の傀儡政権であるクヴィスリング政権がノルウェーの交通計画を掌握し1942年にトイアンプロジェクトと共に計画は変更された。計画ではオスロ東駅とオスロ西駅両方を廃しトイアン地区(Tøyen)に新しい中央駅を造るというもので、すべての郊外交通のディーゼルバスと長距離交通の結節点を造る計画であった。市電と通勤鉄道は廃止されフリーウェーに転換され市の中心部の中央駅の重要性は低下した。委員会とノルウェー国鉄は計画を退けた。戦時中、ドイツの軍隊は全ての鉄道網と車両を搾取し終戦時には鉄道システム全体が疲弊していた。戦後、1946年中央駅の計画がエギル・スントにより作られた。委員会は新しい中央駅の建築コンペを公告し、ジョン・エング(John Engh)のプランが公式認可された。計画は1938年の委員会の物を基本にアルナブル操車場(Alnabru)を拡張し平行して駅を設けるものが追加されている。当局は計画が完成するまで15年を要するであろうと発表した。一つの大きな問題は市街直下を貫くトンネルで、ノルウェー国鉄(NSB)は迅速な輸送のため直線を望んでいたが一方でオスロの大部分は粘土質を含む複雑な地質構造であった。もともとの計画ではオスロ市庁舎付近の駅も含まれていたが、もっと北側のルートが選ばれトンネルの長さは1,802mとなった。計画は1952年に公表されたが、議会を通過するのは難しかった。1959年に計画は改訂され、1960年に新しい委員会が作られた。委員により貨物列車用に3線目をグレフセンとベストゥン間に建設し東西を結ぶことが提案された。また、トンネルを西側に拡張しスカルプスノ-スコイアン間とハヴナ線を廃止しなければならないとされた。新たな計画は1962年議会により認可された。
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