堀内監督時代
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2004年 V9時代のエースだった堀内が監督に就任、生え抜きの高橋由伸らに加え、前年までで近鉄との契約が終わったタフィ・ローズ、ダイエーから膝の靭帯を断裂した後出場のなかった小久保裕紀を獲得した。かねてより所属する清原和博、ペタジーニ、江藤智などのさまざまな球団で活躍した4番打者が1チームに顔を揃えるという超重量打線となった。長嶋終身名誉監督に「史上最強打線」と名付けられた打線は、事実この年にローズが45本塁打で外国人選手史上初めて両リーグでの本塁打王に輝いたのに加え、小久保が球団史上初の右打者で40本塁打を記録する等年間259本塁打のプロ野球新記録を樹立。しかし、259本塁打の新記録を達成したものの100打点を挙げた打者が一人もいなかった事やチーム最多盗塁が鈴木尚広の9と機動力をあまり駆使しなかった事で繋がりを欠き、チーム盗塁数は25と12球団で最も少なく、また平成に入ってからのワースト記録にもなっている。ちなみに、12球団11位の日本ハムは45盗塁。投手陣においても上原が2.60で最優秀防御率を獲得したものの、その後が続かず規定投球回に到達したのはその上原だけでチーム防御率は4.50とワースト3位で完封勝ちは5とヤクルトに次ぐワースト2位タイと投手陣が打撃陣の頑張りを活かせず、成績は前年と同じ3位だった。近鉄・オリックスの合併問題に端を発したプロ野球再編問題では、球団スカウトが行った明治大学の投手一場靖弘への不正な金銭授受の責任を取り、渡邉恒雄がオーナー職を辞任した。また、テレビ視聴率も前年から低下した。 2005年 ポジション争いをやめさせ、打順を固定することにより1年を戦う打線として「不動明王打線」と名付けたが、高橋由、二岡智宏らが軒並み故障。この年から始まった「セ・パ交流戦」では4位(セ・リーグでは阪神に次いで2位)と好調だったものの、前年にヒューストン・アストロズで74試合に登板と抑えとして期待された新外国人のダン・ミセリが4月1日に行われた広島東洋との開幕戦で1点リードの9回に3点を奪われてセーブに失敗すると、次の登板もサヨナラ負けで2戦連続の敗戦投手と極度の不振で4試合に登板しただけで4月19日に球団史上最速で退団、5月11日のオリックス戦で3・4月は8本塁打21打点と奮闘していた清原が11回裏に山口和男に危険球死球を受けて以降は不振に陥る等、投手陣の崩壊やチームの空中分解により、8年ぶりのBクラスとなる5位に終わっただけではなく、9月28日の阪神戦で敗れた事でシーズン77敗目を記録し唯一最下位に沈んだ1975年の76敗を超えて球団史上ワーストの敗戦数を更新。4.80の防御率と737失点が何れも球団史上ワーストとなり、結局シーズンは62勝80敗4分と球団史上初のシーズン80敗となってしまった。また、前年の球界再編騒動および原監督の辞任騒動から人気が一気に下降した影響により、観客動員数の減少やテレビ視聴率の低下が顕著化する。そのため日本テレビを筆頭に各キー局が地上波中継の延長短縮や中止があり、中継自体も深夜枠での録画放送および衛星放送への移行が進む様になった。この低迷によって2005年シーズン中からストーブリーグを見越した活動が表面化し、怪我と成績不振が重なったローズと清原は8月頃からチーム編成をはずれ、また監督候補についても、初の他球団出身監督として阪神のシニアディレクター星野仙一の名前があがった。星野シニアディレクター招聘の報道が表面化すると球団出身者のみが監督となってきた伝統を崩す事に一部OBやファンが反発。星野シニアディレクターは9月10日に会見を開き、阪神に残留する事を表明した。10月5日、堀内は成績不振の責任を取って任期を1年残し退任し(堀内自身は解任されたと述べている)、翌年からの新監督として原が3年ぶりに復帰する事を正式に発表した。なお堀内が監督を務めてから2年間の成績が133勝144敗7分となった為、監督が通算成績で負け越しのまま退任したのは球団史上初である。
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