堀内良平の状況
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東京市街自動車の設立の中心人物は堀内良平である。1908年(明治41年)に上京した堀内良平は報知新聞の経済記者となり、活動を通じて甲州財閥の面々と知遇をえることに成功した。この人脈をつかい資金を集めて、1911年(明治44年)富士身延鉄道を創立し、専務となる。次に、甲州財閥が東京市内の市電を独占したことに習い、東京市内での乗合バス事業を画策した。 堀内良平は、1913年(大正2年)ごろより乗合自動車の調査研究を始めた。最初の契機は、鉄道資材の輸入で取引のあったセール・フレザー商会の取締役に乗合自動車の交通機関としての将来性を説かれたことが契機となった。 また堀内は、「民間への自動車に補助金を出し、一旦有事の際にはこれを徴用する方針」という陸軍の意向を軍務局長であった奈良武次より情報を得ていた。堀内良平を顕彰した書籍である『富士を拓く』によると、富士身延鉄道が東京渡辺銀行と取引をしており、この縁で渡辺家と相談しながら乗合自動車の設立を計画したと記述がある。
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