地元での評価と実態とは? わかりやすく解説

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地元での評価と実態

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:28 UTC 版)

吉良義央」の記事における「地元での評価と実態」の解説

いつの頃からか三河地方一部では、領地幡豆郡黄金堤築いたとされる治水事業1686年)や、富好新田新田開拓1688年)、塩田開発などの治績を義央が行ったという伝承形成されており、これらを根拠として地元名君として評価する独特な史観基づいた教育が行われている。しかし名君であるとするこれらの根拠は、近年になって作られたと考えられるものが多い。 慶長14年1609年)から元禄15年1702年)まで、吉良家が義弥・義冬・義央の3代にわたり事績書き継いできた『吉良家日記』には、黄金堤築造富好新田干拓塩田開発などを当時吉良家や義央が行ったという記述やそれに類する記録一切見られないまた、こうした事業当時吉良家や義央が行ったということ記した江戸期史料発見されていない吉良家上杉家米沢藩)に莫大な借金肩代わりをさせているような財政状況で、当時町方対す支払いなども滞っているような有様であったそうした中、吉良家独自に多額資金を必要とする治水事業立て続け主導したというのは、経済的な面から考えても無理がある。義央が行ったとされている治績は、当時吉良義央吉良家が行なったものではなく実際に後世領主幕府などが行ったものである可能性が高いと見られている。 そもそも吉良荘があった矢崎川周辺は、新田開発によって発展した地域町人による新田開発多く吉良周辺にも「新田」と名が付く地名多く見られる新田開発自体も、江戸期通して幕府から推奨されており、全国各地でその取り組みが行われていた。これらのことを考えると、仮に義央が新田開発行ったとしても、それだけ特出した治績であったとは言いがたい。 吉良町には「赤馬」という郷土玩具存在し、これは義央が黄金堤築いた際に当地訪れ現地赤馬乗って作業視察したという言い伝え由来するとされている。しかし実際に義央が三河吉良領を訪れたのは生涯一度だけで、『吉良家日記』に延宝5年1677年11月京都臨時の上使を務めた帰りに、領地三河国幡豆郡吉良庄を訪れたことが確認できるのみである。黄金堤築堤されたとされる伝承1686年)とは時期重ならない。実は、この郷土玩具の「赤馬」は義央の死後130年ほど後の天保年間になってから作られはじめたものであり、赤馬自体全国各地郷土玩具散見する素朴なモチーフ一つとして知られている。また吉良の「赤馬」は継続して製作され続けていたわけではなく天保年間には製作が途絶えた時期もある。後年5代目時代に、おりから郷土玩具ブーム乗る形で「吉良赤馬」として全国的に知名度広まったその後6代目になって愛好家からの要望で、初め商品に「白馬」と「殿様」が加わったという経緯がある。義央との関連付けはこの時期形作られと見られる。 「黄金堤」という名称についても、築堤によって水害終息させ農業生産安定寄与した義央の遺徳偲んで称されるようになった、という伝承があるが、実際に義央が築堤たとする根拠乏しい。 1991年行われた発掘調査では、吉良義央築堤という伝承支持する年代観は得られず、「その領国政策について伝承のみ」とされた。また、黄金堤の名称とその存在の初現については、明治17年1884年)の瀬戸村整埋図に「番外三十二番黄金堤十七間四尺 幅平均九間」とあるのが確認できる最初のものであり、それ以前現存史料である寛永5年1623年)「岡山村検地水帳」・宝永2年1705年)「田畑水帳」などには、黄金堤の名称とそうした堤の存在確認できないことが、愛知県埋蔵文化財センター調査によってわかっている。 義央は、須美川領内水田引き込む寺島用水開いたともされる。しかし岡山村の南に位置する寺島吉良領内ではない。そもそも寺島用水開削自体江戸期行われたものではなく実際に明治17年1884年)に行われたのである塩田開発に関しては、義央が刃傷事件遭遇した元禄14年以前開発され三河国幡豆郡塩田は本浜および白浜のみで、このうち本浜塩田所在する吉田村甘縄藩松平領、白浜塩田所在する富好外新田村幕府領いずれも吉良領ではない。そもそも吉良家歴史の中で塩作り行ったという記録は1件もなく、吉良家塩田に関わった説の初出戦後とされ、NHK大河ドラマ峠の群像』で世間広まったと言われている。 義央の所領があった上野国においては若狭守の正室伊香保温泉湯治した帰途白石にあった陣屋滞在して義央を産んだという伝承があり、この時産湯使われ井戸を「汚れ井戸」と称して後世伝わっている。もっとも、義央は江戸鍛冶橋江戸屋敷誕生したとされ、吉良陣屋にあった飲料適さない井戸を「汚れ井戸」とし、わざわざ義央の産湯の話を付け加えたのは地元領民揶揄であった考えられる

※この「地元での評価と実態」の解説は、「吉良義央」の解説の一部です。
「地元での評価と実態」を含む「吉良義央」の記事については、「吉良義央」の概要を参照ください。

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