国民精神文化研究所の設立
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1932年8月文部省は国民精神文化研究所を設立する。これは学生思想問題調査委員会多数派による答申を受けたものである。高等学府の学者は大方反対者であり、国民精神文化研究所の仕事に直接参加することを拒んだという。所長は東大教授の吉田熊次に決まりかけるが本人に断られ、文部次官が所長事務取扱を兼ねる形で取りつくろう。実際には学生部長伊東延吉と事業部長紀平正美が中心となって運営する。研究部長は当初欠員であり、のち吉田熊次が就く。専任の所長には1934年5月、社会教育局長であった関屋龍吉が就く。当時この人事は左遷と評されたという。 研究部には、歴史科、国文学科、哲学科、教育科、法政科、経済科、思想科が各科が置かれる。研究成果は出版、講演会、講習会などを通じて普及が図られる。出版物として、紀要『国民精神文化研究』をメインに、パンフレット『国民精神文化類輯』、機関誌『国民精神文化研究所々報』などを発行する。初期の『国民精神文化研究』には、河野省三の論文「我が上代の国体観念」のような、国体観念や国民精神の闡明を目的とする論文が数多く掲載される。 研究部以上に重要なのは事業部である。これは学校教員の思想対策と転向学生を扱う。事業部は教員研究科と研究生指導科に分かれる。 教員研究科は師範学校教員の思想再教育を目的とするものである。これは後に中等学校教員も対象にする。研究員募集の通牒には、国体観念と国民精神に関する根本的研究を積まさせて思想上の指導訓育に尽力させる、とある。第1期研究員の修了後の所感は「特に知識的よりも信念的には一層国体観、人生観が深められた」「左右両思想への批判と国体観念、日本精神に対する明確なる信念を得た」などの感想が圧倒的に多い。研究員たちは学校教師として帰任した後、生徒の思想善導の中心となり、また地域の講演会や講習会の講師として引っ張りだこになり、国体観念を熱心に鼓吹していく。 研究生指導科では、思想上の理由で退学した学生生徒の指導矯正を図る。いわゆる転向の促進である。指導方針は「時代思想を批判し、日本精神を闡明ならしむるを主眼とす。まず過去の生活態度に対する反省とマルクス主義の理論的批判に努力せしめ、ついで我が国体・国民精神についての研究をなさしめ、もって日本人としての確固たる生活原理を樹立せしむるよう指導をなす」とされる。入所者に指導矯正を繰りかえし、入所者が我が国体・国民精神の真髄を体得し、日本人としての自覚を強固にして、日本思想界の刷新のため力を尽くし皇国に報いんとする念願を持つに至らしめたという。 国民精神文化研究所の中心人物である伊東延吉は1933年6月に同所の機関誌に「思想問題と国民精神文化研究所」と題して、「我国体は永久不変であり、永遠に栄え、皇位は真に万世一系である。この真我を把握し、この国体を体認する。そこより我国の学問が発展し、我国の教育が建設せられる」という認識を示し、欧米流の分析・実証・理論を排して「全的綜合、内面的把握、人格的証悟、実体的把握」なるものが必要であると主張する。そして、かつて学生思想問題調査委員会で河合と蝋山が示した異見を否定する。
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