学生思想問題調査委員会
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1932年(昭和7年)5月、文部省の学生思想問題調査委員会が文部大臣の諮問に答申を出す。同委員会は前年に文部大臣の諮問機関として設けられたものであり、その委員の大多数は、左傾思想(マルクス主義)が国体に反する危険思想であることを共通認識とし、左傾の原因について「我が国体思想の涵養が不充分なりしことが、マルキシズム勢力の原因の一つ」と判断し、具体的な対策として「我が国体・国民精神の原理を闡明し、国民文化を発揚し、外来思想を批判し、マルキシズムに対抗するに足る理論体系の建設を目的とする、有力なる研究機関を設くること」を提唱する。これは国民精神文化研究所の創設に結びつく。 学生思想問題調査委員会の中で少数派であった河合栄治郎と蠟山政道は、委員会の答申とは別に自分たちの少数意見を『学生思想問題』として公刊する。同書に次のように言う(大意)。 国体思想それ自体を尊重し、その涵養が重要であることを認めるが、元来国体思想はマルキシズムと全面的に対立するものではない。 国体思想とマルキシズム勢力の原因は全く関係ない。国体思想が涵養されないことでマルキシズムが勢力を持ったわけでもなければ、国体思想が涵養されたからといってマルキシズムの勢力が阻止されるものでもない。 国家主義の不充分であったことはマルキシズム勢力の一因となるとともに、また国家主義が充分であることは逆にマルキシズム勢力の一因ともなる。国家主義とマルキシズムとの関係は決して単純ではないことを注意すべきである。 このような河合・蝋山の意見が委員会の大勢と対立することは明らかである。この委員会の発展形といえる後の思想対策協議委員では、河合や蝋山のような見解はありえないものとなり、それ以降の思想全般のあり方についてもそのような見解を批判し否定する方向が唯一絶対化する。
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