国民福祉という思想の芽生え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 02:19 UTC 版)
「寛政の改革」の記事における「国民福祉という思想の芽生え」の解説
当時、現在のような税を取る対価として行政サービスを施すという考えはなかった。しかし、農村への救済策が不十分な田沼の政策により荒廃の一途を辿っていた農村と、天明の大飢饉の致命的な打撃を受け、このころから不完全ながらも世を経綸し、人民を救うという「経世済民」の思想にもとづいた行政がうまれようとしていた(p44)。 寛政の改革ではこれまでの収奪一辺倒だった政策を改め、民を救うための政治へと断行した。定信は飢餓対策に取り組み、都市・農村問わず凶作や自然災害に備え米や金銭を貯える備荒貯蓄政策を推進した。定信は凶作に備え国家が食糧を備蓄することこう論じている。 国に九年の貯え無くば不足なりと曰う、六年の貯え無くば急なりと曰う、三年の貯えなくば国その国に非ずと曰う(p54-56)。 定信は主に農政や福祉に重点を置いた政策を行い農業人口の増加と荒れ地の復旧に努めた。農具代・種籾代の恩貸令、その返済猶予令、他国出稼制限令、旧里帰農奨励令など、様々な荒廃した農村の復興を図った。 助郷の軽減を行い、経済の発達によって輸送量と通行者が増加し、従来の年貢米の納付の免除だけでは今の多大な不足分を賄えず財政の窮乏を引き起こしていた助郷村に対し、助郷の負担を定め、規定を超えたときは貨幣を支払うものとした。 中間搾取が蔓延していた納宿の株仲間を廃止し、納宿が行っていた年貢米の廻送、蔵納めを村々の直納とした。納宿の代わりに江戸の米商人から上納を一手に引き受ける「廻米納方引請人」を任命することで、それらの商人を通じて年貢を納入し、農民への余分な負担をかけないように取り計らった。 人口増加政策として、天明の大飢饉からの回復を目指し、間引きの禁止、児童手当の支給を実施し、1790年には2人目の子供の養育に金1両を支給した。1799年にはさらにそれを2両に増額した。 さらに、前代より幕府公金の貸出を飛躍的に増大させ、その利益を福祉にまわした。公金の貸付金の年利は民間の利率より割安の1割であり、この貸付金は利殖が目的であったので、対象は困窮民ではなく大名や旗本、豪農や豪商に貸し付けられた。この年利によって生まれた利金は、小児養育や帰農・荒地復興など幕領の困窮した農村の救済に充てられ、農村復興、宿場助成、用水普請助成、鉱山復興などに使われた。 飢饉対策として、各地に籾蔵を設け、さらに年貢徴収の役人である代官の不正を厳しく取り締まった。農村などで不正を行い私利私欲で動いていた不正役人を勘定方三十人、普請方二十人、罷免した。代官も二年間に八人を処断し十九人の代官を交代させた。それに合わせ新たに任命された代官達は、陣屋において長期にわたって農村復興に努めた。その結果、寺西重次郎、岡田清助などといった神社で神に祀られたりするような「名代官」が各地に誕生した。 また、江戸では、改革直前の1787年5月に、数日間にわたる打毀騒動があったことから、その再発防止のための都市政策の整備が緊要の課題であったため、石川島に無宿者を収容する人足寄場を設置したり、窮民救済のための七分積金令の発令や町会所を設置したりなど、貧民蜂起の予防策を実施した(p66-85)。このうち、石川島の人足寄場や町会所、あるいは勘定所御用達の制度などは、幕末期まで存続している例が多い。
※この「国民福祉という思想の芽生え」の解説は、「寛政の改革」の解説の一部です。
「国民福祉という思想の芽生え」を含む「寛政の改革」の記事については、「寛政の改革」の概要を参照ください。
- 国民福祉という思想の芽生えのページへのリンク