むかい‐きょらい〔むかゐ‐〕【向井去来】
向井去来
肥前長崎に儒医向井玄升の次男として誕生。生年の月日は不祥。本名向井平次郎。父は当代切っての医学者で、後に京に上って宮中儒医として名声を博す
(現代の宮内庁病院長といったところか)。去来も、父の後を継いで医者を志す。 兄元端も宮中の儒医を勤める。 去来と芭蕉の出会いは、貞亨元年、上方旅行の途中に仲立ちする人
(京都生まれの江戸俳人和田蚊足<ぶんそく>)があって去来と其角がまず出会い、その其角の紹介で始まったとされている。
篤実とか温厚とか、去来にまつわる評価は高いが、「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」とあだ名されたように京都のみならず西日本の蕉門を束ねた実績は、単に温厚篤実だけではない卓抜たる人心収攬の技量も併せ持ったと考えるべきであろう。後世に知的な人という印象を残す。
嵯峨野に別邸落柿舎を持ち、芭蕉はここで『嵯峨日記』を執筆。
『猿蓑』同人。『去来抄』は芭蕉研究の最高の書。
去来の墓
京都嵯峨の落柿舎裏にひっそりと残っている。その規模の小さなことは、高浜虚子の歌「凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣でけり」がよく表している。
去来宛書簡1 (貞亨3年閏3月10日)
去来宛書簡2
(元禄2年12月下旬)
去来宛書簡3
(元禄3年7月下旬)
去来宛書簡4
(元禄3年8月)
去来宛書簡5 (元禄3年12月23日)
去来宛書簡6 (元禄4年3月9日)
去来宛書簡7 (元禄4年7月12日)
去来宛書簡8 (元禄4年9月9日)
去来宛書簡9 (元禄5年2月18日)
去来宛書簡10 (元禄5年5月7日)
去来宛書簡11
(元禄5年9月8日)
去来宛書簡12
(元禄7年1月29日)
去来宛書簡13 (元禄7年閏5月18日)
去来宛書簡14 (元禄7年8月9日)
去来宛書簡15 (元禄7年9月10日)
去来宛書簡16 年次不詳
去来の代表作
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岩鼻やここにもひとり月の客(『去来抄』)
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何事ぞ花みる人の長刀(『あら野』)
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名月や海もおもはず山も見ず(『あら野』)
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月雪のためにもしたし門の松(『あら野』)
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鶯の鳴や餌ひろふ片手にも(『あら野』)
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うごくとも見えで畑うつ麓かな(『あら野』)
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いくすべり骨おる岸のかはづ哉(『あら野』)
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あそぶともゆくともしらぬ燕かな(『あら野』)
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筍の時よりしるし弓の竹(『あら野』)
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涼しさよ白雨ながら入日影(『あら野』)
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秋風やしらきの弓に弦はらん(『あら野』)
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湖の水まさりけり五月雨(『あら野』)
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榾の火に親子足さす侘ね哉(『あら野』)
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手のうへにかなしく消る螢かな(『あら野』)
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ねられずやかたへひえゆく北おろし(『あら野』)
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箒こせまねてもみせん鉢叩き(『いつを昔』)
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つかみあふ子供の長や麦畠(『嵯峨日記』 『去来抄』『猿蓑』)
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一昨日はあの山越へつ花盛り(『花摘』)
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花守や白きかしらを突あはせ(『蘆獅子集』・『炭俵』)
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振舞や下座になをる去年の雛(『猿蓑』)
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あら礒やはしり馴たる友鵆(『猿蓑』)
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尾頭のこゝろもとなき海鼠哉(『猿蓑』)
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うす壁の一重は何かとしの宿(『猿蓑』)
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心なき代官殿やほとゝぎす(『猿蓑』)
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たけの子や畠隣に悪太郎(『猿蓑』)
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つゞくりもはてなし坂や五月雨(『猿蓑』)
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百姓も麥に取つく茶摘哥(『猿蓑』)
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螢火や吹とばされて鳰のやみ(『猿蓑』)
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夕ぐれや屼並びたる雲のみね(『猿蓑』)
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はつ露や猪の臥芝の起あがり(『猿蓑』)
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みやこにも住まじりけり相撲取(『猿蓑』)
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君が手もまじる成べしはな薄(『猿蓑』)
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月見せん伏見の城の捨郭(『猿蓑』)
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かゝる夜の月も見にけり野邊送(『猿蓑』)
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一戸や衣もやぶるゝこまむかへ(『猿蓑』)
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柿ぬしや梢はちかきあらし山(『猿蓑』)
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梅が香や山路獵入ル犬のまね(『猿蓑』)
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ひとり寝も能宿とらん初子日(『猿蓑』)
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鉢たゝきこぬよとなれば朧かな(『猿蓑』)
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振舞や下座になをる去年の雛(『猿蓑』)
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知人にあはじあはじと花見かな(『猿蓑』)
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鳶の羽も刷ぬはつしぐれ(『猿蓑』)
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鶏もばらばら時か水鶏なく(『猿蓑』)
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春や祝ふ丹波の鹿も帰とて(『炭俵』)
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朧月一足づゝもわかれかな(『炭俵』)
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うのはなの絶間たゝかん闇の門(『炭俵』)
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名月や掾(縁)取まはす黍の虚(『炭俵』)
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芦のほに箸うつかたや客の膳(『炭俵』)
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瀧壺もひしげと雉のほろゝ哉(『續猿蓑』)
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萬歳や左右にひらひて松の陰(『續猿蓑』)
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寐道具のかたかたやうき魂祭(『續猿蓑』)
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凉しくも野山にみつる念仏哉(『續猿蓑』)(『去来抄』)
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凩の地にもおとさぬしぐれ哉(『去来抄』)
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猪のねに行かたや明の月(『去来抄』)
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散銭も用意がほ也はなの森(『去来抄』)
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手をはなつ中に落ちけり朧月(『去来抄』)
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兄弟のかほ見るやミや時鳥(『去来抄』)
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弓張の角さし出す月の雲(『去来抄』)
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電のかきまぜて行闇よかな(『去来抄』)
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幾年の白髪も神のひかり哉(『去来抄』)
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盲より唖のかはゆき月見哉(『去来抄』)
向井去来
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向井 去来(むかい きょらい、慶安4年(1651年)[1] - 宝永元年9月10日(1704年10月8日))は、江戸時代前期の俳諧師。蕉門十哲の一人。本名は兼時[1]、幼名は慶千代[1]、字は元淵[1]、通称は喜平次・平次郎[1]、別号に義焉子・落柿舎がある[1]。
儒医向井元升の二男として肥前国(今の長崎市興善町)に生まれる[1]。8歳で上京して武芸を修め、儒医の兄の縁で堂上家に仕えた[1]。24、5歳の頃に堂上家を辞してからは他家に仕官しなかった[1]。貞享元年(1684年)宝井其角と出会い、蕉門に入門する[1]。貞享3年(1687年)江戸で芭蕉と対面して親交を結び[1]、元禄4年(1691年)野沢凡兆と共に編集した蕉風の代表句集『猿蓑』を刊行した[1]。嵯峨野の落柿舎(らくししゃ)に住み、松尾芭蕉はここで『嵯峨日記』を執筆した。晩年には芭蕉の俳論をまとめた『去来抄』の草稿を残した[1]。
高潔で篤実な性格から、芭蕉をはじめとした俳人から親しまれ、「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」とあだ名された[1][2]。
作品
- 『去来抄』
- 『旅寝論』
- 『伊勢紀行』
主な句
- 秋風や白木の弓に弦はらん
- 湖の水まさりけり五月雨
- をととひはあの山越つ花盛り
- 尾頭のこころもとなき海鼠哉
- 螢火や吹とばされて鳰の闇
- 鳶の羽も刷[3]ぬはつしぐれ
- 応々といへど敲くや雪の門
- 岩鼻やここにもひとり月の客
出典
向井去来(むかい きょらい)
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「蕉門十哲」の記事における「向井去来(むかい きょらい)」の解説
慶安4年(1651年) - 宝永元年(1704年) 京都嵯峨野に別荘「落柿舎」を所有。芭蕉より野沢凡兆とともに「猿蓑」の編者に抜擢される。
※この「向井去来(むかい きょらい)」の解説は、「蕉門十哲」の解説の一部です。
「向井去来(むかい きょらい)」を含む「蕉門十哲」の記事については、「蕉門十哲」の概要を参照ください。
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