吉田茂_(内務省出身)とは? わかりやすく解説

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吉田茂 (内務省出身)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/02/26 16:34 UTC 版)

日本の政治家
吉田 茂
よしだ しげる
生年月日 1885年9月2日
出生地 大分県北海部郡臼杵町
没年月日 1954年12月9日(満69歳没)
出身校 東京帝国大学

第3代軍需大臣
内閣 小磯内閣
任期 1944年12月19日 - 1945年4月7日

第5代厚生大臣
内閣 米内内閣
任期 1940年1月16日 - 1940年7月22日


貴族院議員

吉田 茂(よしだ しげる、1885年9月2日 - 1954年12月9日)は、昭和時代の内務官僚貴族院議員

岡田内閣内閣書記官長米内内閣小磯内閣で閣僚を務めた。戦後、公職追放にあう。

戦後、内閣総理大臣を務めた外交官・政治家の吉田茂とは同姓同名の別人であるが、しばしば書籍・ウェブサイトなどでは混同されて紹介されていることがあるので注意を要する。

目次

略歴

大分県臼杵町(現在の臼杵市)で日本銀行行員であった士族の長男として生まれる。旧制東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)、第一高等学校を経て、1911年東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、高等文官試験に合格。

1911年内務省入省。1923年東京市助役として出向して関東大震災後の復興策に参与、後に本省に戻って復興局長官官房文書課長、内務省神社局長、社会局長官、内閣書記官長、軍部や「新官僚」の拠点とされた内閣調査局(のちの企画院)の初代長官を歴任した。労働組合の法制化問題などを担当して、「革新官僚」・「新官僚」と称される官僚の一人と目される。

岡田啓介内閣では内閣書記官長に任命される。1937年貴族院勅選議員に任命された。

米内光政内閣では内務省から分離されてから間もない厚生大臣を務め、東條英機内閣では福岡県知事小磯國昭内閣では軍需大臣を務めて、戦争遂行に深く関与した。

1946年公職追放を受け、7年後の1953年に復帰して神社本庁事務総長を務めたが、間もなく没している。

もう一人の吉田茂

米内内閣の厚生大臣に就任した際に、間違ってお祝いを贈られた後の首相吉田茂は激怒したという。後に二人の間で取り決めを行い、間違って贈られたものでも生ものなど送り直す時間がないものに関しては、届けられたほうが食べてしまってもよいという約束を交わしている。

また戦後になって外務省出身の吉田茂が首相になった際にも「内務省の吉田はいつの間にアメリカ人と仲よくなったのか?」といぶかしむ者が居たという。

参考文献

藤本頼生「内務官僚吉田茂の神社観」『神道と社会事業の近代史』弘文堂、平成21年(2009年)所収

外部リンク


官職
先代:
藤原銀次郎
軍需大臣
第3代:1944 - 1945
次代:
豊田貞次郎
先代:
秋田清
厚生大臣
第5代:1940
次代:
安井英二
先代:
河田烈
内閣書記官長
第35代:1934 - 1935
次代:
白根竹介
先代:
本間精
福岡県知事
官選第33代:1943 - 1944
次代:
戸塚九一郎



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