協同民主党の実権掌握
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三木を協同民主党に誘ったのは日本協同党委員長の山本であった。山本は党勢拡大のために政治家経験がある人物の入党を望んでおり、衆議院議員当選3回の三木を協同民主党結党に誘うことになった。三木はこれまで協同主義と深い関わりがなく、北ら農村派は三木の入党に反発したが、山本は反対を押し切った。結党した協同民主党は日本協同党に引き続き、中央委員長は山本、書記長には井川という体制でスタートした。6月18日、入党したばかりの三木は協同民主党の総務委員の一人に選ばれ、8月25日には協同民主党第一回全国大会で筆頭常任中央委員となる。この頃の協同民主党は、GHQ民政局の政党係から、戦前の官界にその源流を持つ中道主義の組織で、党の公約は小作農よりも不在地主の利益を代表する農業政党であって、党の公約は官僚や資本家を悪者扱いした軍国主義者、全体主義者のスローガンの復活であり、天皇制について最も保守的な政党であり、日本の政治思想の右翼を代表しているとの見方をしていた。 山本執行部は、日本民主党準備会にいくつかの院内団体が合同し、名称変更された新政会との合同をもくろむが、1946年(昭和21年)9月9日に失敗に終わる。この過程で北ら農村派と執行部との対立が激化し、北らは除名処分を受けることになる。新政会との合同が挫折した後、浮上したのが日本進歩党との合同であった。協同民主党内で進歩党との合同に積極的であったのは委員長の山本と有力議員であった林平馬であった。しかし保守色が強い進歩党との合同に三木らは反対し、進歩党内でも協同民主党との合同に反対する声が上がった。結局進歩党との合同は9月末には白紙となり、協同民主党内では山本や林らの権威が低下し、三木の力が増していくことになった。 協同民主党成立直後の1946年(昭和21年)6月、山本の公職追放が取り沙汰される。山本が社長を務めていた雑誌改造の戦時中の論調などの問題により、公職資格審査委員会から議員不適格との表明がなされた。山本は委員会に再審査を要求するとともに、民政局に対して政府の弾圧を受けた自由主義者であることを訴え、民間諜報局(CIS)にも働きかけるなど追放回避の運動を行った。しかし民政局は山本の画策に不快感を抱き、12月16日には林譲治書記官長から改めて追放令に該当する旨通告され、年内に議員を辞職するよう求められた。結局山本は追放となり、1947年(昭和22年)2月14日には議員辞職が認められた。 党首である山本の公職追放により、協同民主党は書記長の井川忠雄と三木、三木のアメリカ留学時代からの友人で、盟友であった松本瀧蔵によって主導されることになるものと見込まれていた。しかし山本追放からわずか4日後の2月18日、井川が狭心症により急死してしまい、三木が協同民主党の実権を掌握することになる。当時まだ39歳の若さで、しかも山本の勧めにより入党したいわば外様の三木が党の実権を握ることができた理由としては、まず党内実力者であった山本の追放、井川の死去、北の除名、進歩党との合同白紙化による林の権威の失墜といった事情に加えて、協同民主党内で当選3回の三木を上回るキャリアを持つ政治家は無かった点がまず挙げられる。また三木は翼賛選挙を非推薦で当選したという実績を持ち、松本瀧蔵とともにGHQに頻繁に出入りしていて、GHQとの関係は良好であると見られており、党内からは戦後民主主義社会の政党指導者にふさわしい人物とも見られていた。そして三木は当時の協同民主党内で最も資金調達能力が高い政治家で、1947年には協同民主党の後進となる国民協同党への総寄付額の約35パーセントを寄付している。党内に三木に匹敵し得る資金調達を行っていたのは岡田勢一のみであった。三木の妻、睦子の実家である森家は森コンツェルンを形成していたが、前述のように三木の結婚前あたりから下り坂となっており、戦後は財閥解体の影響も受けた。そのため三木の資金源が森コンツェルンによるものかどうかはっきりとはしないが、党内随一の政治資金調達能力が実権掌握に大きく寄与したことは間違いない。 当時の三木は、政界の中では前述の岡田勢一の他に、宇田耕一、そして河本敏夫を資金源としていたと言われている。後にクリーン三木と呼ばれるなど、清廉さを代名詞として語られるようになる三木であるが、戦後、小政党を渡り歩いていた頃の三木は「金集めのベテラン」との評価を受けるなど、優れた政治資金調達力が高く評価されていた。
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