協同民主党への参画
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1945年(昭和20年)3月に結成された護国同志会の運営を主に担っていたのは船田中であった。護国同志会には産業組合関係者も多く、戦後になって1945年10月から11月にかけて、護国同志会の系列の船田中らと産業組合の千石興太郎、黒沢酉蔵らによる新党結成の動きが本格化した。その結果、12月18日には26名の衆議院議員が参加する日本協同党が結成される。日本協同党は協同民主主義を標榜し、協同組合主義を経済原則に掲げ、戦争で大きな打撃を蒙った産業、経済、文化を、勤労、自主、相愛を基調とする協同組合主義により再建し、協同組合が産業の復興の中核となることを主張した。日本協同党は黒沢、船田を代表世話人とし、井川忠雄ら5名が世話人、千石ら23名が委員となった。党を指導する船田、千石らは、かつて近衛新体制運動に積極的に係わったものの、戦時体制下では非主流派となったため、終戦後の新たな体制の担い手となり得ると考えていた。しかし1946年(昭和21年)1月4日、GHQは黒沢、船田、千石らを公職追放とすることを決定し、日本協同党の代表世話人、世話人、委員計30名のうち、追放を免れたのは世話人の井川忠雄、委員の北勝太郎の2名のみであった。党存続の危機に見舞われた日本協同党は2月23日に緊急幹部会を開催し、井川を中心として党再建に乗り出すこととした。井川はまず日本協同党が自由党の左、社会党の右の存在とし、協同主義は統一的な協同組合行政を確立する理念であると主張した。2月28日には第一回の党全国代表者会議の席で、常任世話人として井川の他、船田中の実弟である船田享二、山本実彦らを選出した。 日本協同党は衆議院議員選挙を前に、まず社会党との連携を模索した。社会党としても戦後の結党時、協同組合関係者を取り込む動きもあり、日本協同党と社会党との提携は不自然ではなかった。しかしGHQ内には日本協同党は日本を穏健化し、安定化させるのに寄与すると評価する声とともに、日本協同党のメンバーには中道やや右よりの政党であるとの合意があると見る向きもあった。4月の第22回衆議院議員総選挙において、日本協同党は94名の候補者を擁立するが、14名の当選にとどまった。思わしくない選挙結果を受けて、日本協同党は社会党との連携以外に諸派、無所属議員のとの連携を図るようになった。 総選挙を無所属で当選した三木は、選挙後、田中伊三次らとともに諸派、無所属議員を結集する会合の呼びかけ人となった。三木、田中らは新人、諸派の国会議員を糾合して新党を結成しようともくろんだのである。三木らは当初、幣原内閣居座り工作を図っていた楢橋渡内閣書記官長らとの連携を進めようとしたが、楢橋の連携相手に目されていた社会党、日本協同党は構想に乗らず、結局自由党、社会党、日本協同党、共産党による倒閣共同委員会が組織されたことにより、4月22日、幣原内閣は総辞職に追い込まれた。政局の動きを見た三木らは楢橋の動きから距離を置くようになり、幣原内閣が総辞職した22日に、44人の衆議院議員からなる院内団体の大同倶楽部を結成した。4月27日には総選挙を受け、中央委員長に山本、副委員長に北、書記長に井川という日本協同党の新執行部が選出された。新委員長に選出された山本は改造社社長であり、戦前に2期、民政党の衆議院議員を務めており、経歴からも協同主義のイデオロギーに必ずしもこだわらない人物であった。そして結成間もない大同倶楽部内に新党結成の動きが起こり、更に日本協同党と大同倶楽部との合同を目指す動きが起こった。この動きは北勝太郎を中心とした日本協同党内の農村派の反対によりいったん立ち消えになったかに見えたが、結局日本協同党や日本農本党などの諸派、大同倶楽部は、5月8日に協同組合主義を党是とする新党、協同民主党の結成に合意するに至った。 ところが協同組合主義の党是に多くの大同倶楽部所属議員からクレームが出され、大同倶楽部所属議員の多くは日本協同党との合同に加わらずに新党結成を目指すこととなって、院内会派日本民主党準備会を結成された。話が進んでいた協同民主党結成の話が突然上手くいかなくなった背景には、他の大政党からの工作があったものと推測されている。結局日本協同党と日本農本党などいくつかの小会派によって5月24日に協同民主党が成立する。三木は当初日本民主党結成準備会に参加したものの、日本民主党準備会は新人代議士27名のみで民主党を結成する方針となり、新党の主導権を握ることが困難な情勢となったため、参加を要請されていた協同民主党に加入することになった。なお日本民主党準備会は院内会派新政会を経て、9月25日、国民党となる。三木が当初もくろんだ新党結成が流産した背景のひとつには、新党構想を主導した三木や田中伊三次が、代議士個人個人の事情を十分考慮することなく、無理やり新党を結成しようとしたことが反発を買ったことが挙げられる。
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