協同組合の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:08 UTC 版)
昭和初期には鵜飼を中心に広谷村の職人が小組合を結成、問屋を通さず小売店への直販ルートを構築したり、木工機械を導入、県外産の新材料を開拓するなど、近代化・合理化に努めた。逆に府中にあった産地問屋はこの時期に一気に減っている。 太平洋戦争中は、徴兵により職人は減り戦時統治によって木材は割当制となり木工機械は供出されたためタンスの生産は止まった。更に残った職人は山陽木工と日の丸木工の2社に企業合同させられ木製の弾薬箱の製造を行っていた。なお福山では福山大空襲が起こっているが府中では空襲の被害はなかった。 戦後はマル進家具と呼ばれた進駐軍用家具の大量発注があったが競争入札でどこも仕事を欲しがったため受注単価は低くなった。それに戦後インフレと材料の不足によって生産環境は良いものではなかった。そこで1947年(昭和22年)職人20数人で共同で事業にあたる「廿日会」を結成、中小企業等協同組合法施行に伴いこれを組織化し1950年(昭和25年)正式に「芦田家具工業協同組合」が発足した。これが後に市町村合併により改称された現在の府中家具工業協同組合になる。 組合による共同事業として、まず原材料の共同購入、そして共同見本市開催が計画された。戦後の道路網整備とトラックの登場は、新たな原材料の入手と家具販路拡大に繋がった。1954年(昭和29年)に府中での共同見本市である第1回家具祭りを開催、1956年(昭和31年)第3回家具祭りから技術コンクールも同時に行わるようになった。これは品質面でのレベル向上に繋がり、各業者の新商品への開拓へと繋がった。
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