勲章の拒否
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「レジオンドヌール勲章」の記事における「勲章の拒否」の解説
以下の面々が叙勲を拒否している。 劇作家のネポミュセーヌ・ルメルシエ(フランス語版)(皇帝とその一族に宣誓するのを拒否した) ラファイエット 詩人ジャン=フランソワ・デュシー(フランス語版)(「鎖よりはぼろを」と言った) モーリス・ジャン・マドレーヌ・ド・ブロイ(フランス語版) ジェラール・ド・ネルヴァル ナダール ジョルジュ・サンド(叙勲を打診した大臣にこう返信した――「そんなことよしてくださいな、酒保のおばあちゃんみたいになりたくないの!」) オノレ・ドーミエ(「政府には私をそっとしておいて頂きたい!」) エミール・リトレ(フランス語版) ギュスターヴ・クールベ ギ・ド・モーパッサン モーリス・ラヴェル(即座に拒否し、またその理由も答えなかった)一方、エリック・サティはこれについてこう書いた――「ラヴェルはレジオンドヌールを拒否したかもしれないが、ラヴェルの音楽はレジオンドヌールをすっかり受け入れてるよ」。 ピエールとマリ・キュリー(打診を受けピエールは素っ気なく言い返した――「必要性を感じません」) ルイ・アラゴンジャック・プレヴェールはこれに対してアラゴンに述べた――「あれを拒否したのは大変結構だが、それだけじゃなくてあれに値しないようじゃなきゃいけなかったな」。 クロード・モネ ジョルジュ・ベルナノス(4度拒否している) ウジェーヌ・ル・ロワ(フランス語版) ジャン=ポール・サルトル シモーヌ・ド・ボーヴォワール アルベール・カミュ アントワーヌ・ピネー(「1914-1918年の戦争(=第一次世界大戦)の戦火の中で得た軍事勲章に勝るものはない」と考えていた) ブリジット・バルドー(1985年に叙勲されたが、受け取りに行くことを拒否した) カトリーヌ・ドヌーヴ、クラウディア・カルディナーレ エクトル・ベルリオーズ(財政難の政府が『死者のための大ミサ曲』の代金として約束の3000フランの代わりに贈ろうとしたがベルリオーズは「おたくの勲章なんか知ったことか。俺の金を寄越せ!」と叫んだ) マルセル・エイメ(1949年に、教育省が叙勲を打診したが拒否。この時の回答は有名。その結びはこうである――「かくも望ましいご厚意をお断りしなければならなくなることは大変な苦痛ですので、どうかそのレジオンドヌールというものには、極楽浄土の喜びのごとく、列車の座席にどっかりと腰を下ろして頂きたく存じます。」[訳語疑問点](『塹壕砲』1950年) ベルナール・クラヴェル(フランス語版)(1997年12月末に「拒否した仲間の方に残りたい」として拒否。伯父のシャルル・クラヴェルがレジオンドヌールを受け取ったのは、過酷な戦争で祖国のために夥しい血を流したからだとも付け加えた。「もし私が伯父と同じ勲章を着けているのを見たら、伯父は墓の中で寝返りを打つでしょう。」) エドモン・メール(フランス語版)(「何が名誉あることで何がそうでないかは国が決めることじゃない」と宣言して拒否) ル・モンド政治部記者フランソワーズ・フレソ、『フランス・アンフォ』記者マリー=イヴ・マルイン(2009年1月5日。「私の職業上の行程の中の何物も、このような栄典を正当化しない。さらに、職務を束縛なく遂行するためには、政治記者は栄典からは離れていなければならない。これらの理由から、私にはこの勲章を拒否する義務がある。」) フィリップ・セガン(父親も受勲を拒否していたことから拒否した。 トマ・ピケティ(2015年1月1日、『官報』でシュヴァリエ(5等級)への叙勲を発表されたが、やはり「誰に名誉を与えるか決めることは政府の役割ではないから」と辞退)。 叙勲は受けるが着用を拒むことを選ぶ者もあり、例えばアカデミー・フランセーズ会員のジャン・ドルメソン(フランス語版)がそうで、こう宣言した――「栄誉なんてものは軽蔑しているが、軽蔑しているからといって我慢できないわけでもない。」。 ジャン・ヴィクトル・マリー・モローはレジオンドヌールの創設を嘲笑していた。誰かがモローに、武勲に秀でたものだけでなく、功績や知識に秀でたものにもレジオンドヌールが授与されると言うとモローはこう叫んだ――「へえ! じゃあ俺はうちの料理人のためにコマンドゥールの勲章を申請するとするよ、あいつは料理の技術に大変優れているからな。」(O'Meara[訳語疑問点]) 『カナール・アンシェネ』の寄稿家はずっと以前から一切の勲章を拒否することを決まりにしていてレジオンドヌールはその筆頭であった(ジャーナリストのピエール・シーズ(フランス語版)は1993年にレジオンドヌールを受け取ったためにカナール誌から追放された)。 ジャック・プレヴェールや、勲章の話を歌にしたジョルジュ・ブラッサンスや、「くだらないリボン、恥ずかしくて真っ赤」と馬鹿にしたレオ・フェレのようなアナーキストの詩人たちも拒絶した。 ミス・フランスの委員長ジュヌヴィエーヴ・ド・フォントネー(フランス語版)にサヴォワ県の上院議員がレジオンドヌールを打診したが他とは逆の理由で断った――「そんな誰にでも渡すのでは勲章の価値がなくなってしまいますよ……チョコレートのメダルじゃないんですから。」 アルスの主任司祭ジャン=マリ・ヴィアンネは1855年に、自分でも知らぬうちにシュヴァリエを叙勲されていた――トレヴー(フランス語版)の郡長とアン県の知事が申請していたのである。勲章は貧者のためのお金をもたらすことはないとして司祭はこれを断った。拒否にもかかわらず、レジオンドヌール勲位局は勲章を料金を請求せずに送付した。結局、司祭は決して勲章を着用することはなかったが、勲章は棺の中に入れられた。 レジスタンスの彫刻家ルネ・イシェ(フランス語版)は1914-1918年にシュヴァリエに叙勲されたが、1947年にはオフィシエへの昇進を断った。芸術家としてであっても、1940年のレジスタンスの先駆者としてであっても、受け取ると勲章はあらゆる意味を失ってしまうと判断したのである。 トルコ高等教育機構(l’Organisation d’Éducation supérieure)会長でガラタサライ大学(フランス語版)の元学長のエルドアン・テジッチ(トルコ語版)教授は、2004年9月17日に受章していたが、アルメニア人虐殺の否定を罰することを目的とした法案が国民議会で可決されたことに抗議するため2006年10月16日に返上した。 2009年1月2日、モーリス・オーダンの娘で数学者のミシェル・オーダン(フランス語版)は、ミシェルの母が、夫(モーリス)のアルジェリアでの失踪の謎を解明することとフランスがその責任を負うことを求めニコラ・サルコジに送った公開質問状に回答が得られなかったことを理由にレジオンドヌールのシュヴァリエを拒絶した。
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