創始に至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 18:23 UTC 版)
明治44年生まれの中野理男(宗道臣)は、昭和初期に「日本民族発展の捨石になろう」という志を基に、祖父や大アジア主義者たちの人脈を頼って大陸に渡る。その後、関東軍の特務工作員の仕事(土肥原機関)をしながら、任務に必要な教育を受ける為に宗教専門学校に連れて行かれ、陳良という一人の老師に身柄を預けられて、そのまま弟子となる。これが中野が北派少林拳との最初の縁合である。陳良老師は、明治33年前後に興った義和団事件の生き残りの拳法の達人で宗教的秘密結社の幇員でもあったとされている。 中野は中国文化に溶け込むための所作や地理や中国国内の諸外国や中国軍閥の動向など情報収集など特務機関の仕事の傍ら老師に少しずつ技を学んでいったとされる。しかしながら満州に居を構えた祖父、本土にいた妹らが相次いで死去したため帰国することとなる。帰国後は飛行兵として訓練をうけるも、心臓弁膜症と診断され除隊、身寄りもなく、再び特務機関員として中国にわたり、陳良老師とともに任務も兼ねて満洲を大旅行する事になるが、その際に陳良老師の人脈のつてや縁で義和団事件の生き残りの拳法家達に絶滅間際の拳技を少しずつ学んでいく。その中の一人が、陳良老師の師匠であり、北少林義和門拳20代師父の文太宗老師である。文老師の下で修行を積んだ中野は、その技の全てを習得して、昭和11年に文老師と共に祖師達磨大師のゆかりの地・嵩山少林寺にて北少林義和門拳の法脈継承の儀式を行い、21代正統継承者となった。 そして、大日本帝国敗戦の年の昭和20年8月9日、満州国の綏陽にて突如としてソビエト連邦軍の侵略に遭遇する。中野は、ソビエト連邦軍機械化部隊の綏陽侵入を確認した後、撤退を敢行することになるが、それからの約1年間をソビエト連邦軍政下の満洲にて生活をする事になる。その中で地獄絵図を経験した中野は、国家やイデオロギー、または法律や政治とは、その立場に立つ人の「質」によって大きな差が出る事を発見する。「人、人、人、全ては人の質にある」という少林寺拳法の格言はこの経験が基である。このソビエト連邦軍政下の経験にて中野は、もし生きて日本に帰る事が出来たならば、私学校を開いて、正義感に基づいた生きる自信と勇気と行動力と慈悲心に満ち溢れた若者を、多く育てたいと念願するようになったという。 しかし、中野が内地へ帰還してみると、GHQによる占領の実態だけでなく、三国人による暴虐や物資難の混乱による修羅場が現出し、日本人が奴隷の様な現実に直面をして痛哭する。それは、中野が帰還を切望していた祖国日本は、道義も秩序も無い弱肉強食の修羅場に変わり果て、特に次代を担う青少年の荒廃は目を覆うばかりだったという。「これではいけない、これからの半生を骨のある青少年の育成に捧げよう」と決心し、四国の香川県仲多度郡多度津町にて主として釈尊の正統仏教の教えを説きながら、人作りの重要性を訴えたが、中々人々はついてきてくれなかった。肝心の若者達も同じで、ほとんどは長続きはしなかったという。そんな状態で思い悩んでいた時に、歴史上の人物で、中国・河南省・嵩山少林寺に座禅行と易筋行を伝えたとされる菩提達磨の夢を見て、そこからはっと閃くものがあった。「そうか、はるばるインドから中国に正統仏教を伝える為に渡った達磨が、この行を弟子達に学ばせたその故事に倣って、今こそその達磨の行動を日本に再現させよう」と思い立ち、人を魅了し引き込んで集める手段として、少林寺拳法を開創する事を思い立ったという。これを長期間に渡って教えながら、道を説けば、必ず日本国の次代を担う青少年に不屈の精神力と、金剛の肉体とを合わせ持ち、その上で自信と勇気と行動力を与える事が出来ると確信したという。 こうして、釈尊の自己確立・自他共楽の教えを「拳禅一如・力愛不二」の法門として編成し、大陸で学んだ各種の拳法を再編整理して、理論の裏付けを行い、さらには戦中・戦後を通しての貴重な白兵戦の体験と創案を加えて、宗門の行としての形を整えた。こうして少林寺拳法が開創されて、その拳法の修行の合間、合間に口が酸っぱくなるほど、釈尊の教えを中心に祖国愛や日本民族への愛等の人生観・世界観を、当時の青少年達に説き続けたという。そして、1980年(昭和55年)に宗道臣が心不全で69歳で死去するまで、この金剛禅運動と名付けられた運動は続けられて、現在は娘の宗由貴に引き継がれている。
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