剣戟スタア・阪東妻三郎
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「阪東妻三郎」の記事における「剣戟スタア・阪東妻三郎」の解説
マキノ雅弘は「最後の時まで育てた役者の中で、一等大殺陣のうまかったのは?」と訊かれ、「専門としてみて」と前置きして、市川右太衛門、月形竜之介の前に「妻さん、だろうね」と阪妻の名を挙げている。阪妻は月形とともに、「竹光では感じが出ない」と真剣を使っての立ち回りもよく行った。稲垣浩は「妻さんが二段引き、というのをやってね。サーッ、ターッ!と相手を斬ってから、キュッとも一つ刃を引く。『あれがいけない』っていうんで、検閲でカットになったことがある」と語っている。「『骨まで斬った』という感じが出るからいかん」、という理由だったという。 マキノと稲垣のコンビによる『血煙高田の馬場』(1937年)で、堀部安兵衛役の阪妻に、マキノ雅弘が「火傷するように熱い、火に焦げた鉄板の上の立ち回りをやってくれ!」と注文をつけた。「難しいことを言うな、と妻さん、殺陣師を横に置いて、やりましたよ。足をバタバタ、バタバタやって、実にうまかったんだ、これが。“アチッ、アチッ!”という感じでねえ。決闘シーンをイチン日で撮っちゃったんですよ。済んだらデーンとひっくり返っちゃって、二度と『高田の馬場』はやらん! と声明した。ほんとに、それから撮らなかったですよ」 阪妻の立ち回りは「悲壮豪壮天下一品」と呼ばれ、破天荒なものだった。『邪痕魔道 前・中・後篇』(1927年、古海卓二監督)の後篇は、「ここ花の吉原仲之町、歓楽の巷にまたもや血の雨が降る・・・」などと弁士の解説とともに、ただひたすらチャンバラのみが写されるという無茶なものだった。伊藤大輔監督とのコンビで撮った『新納鶴千代』(1935年)では、阪妻は荒川大橋の上で、すべての敵を後ろにして前を歩き、後からかかってくる敵を全部振り返らずに斬るという斬新な殺陣を見せている。 トーキー時代に入って伊藤とマキノ雅弘のコンビで撮った『国定忠治』では、子負いのバンツマが泣く子を『木曾の仲乗りさん』を歌ってあやしながら、追手と立ち回りを演じるという難しい殺陣を見せている。マキノによると、阪妻は歌が得意だったわけではなく、時代劇スタアの中で本当に歌が歌えるのは嵐寛寿郎くらいだったという。阪妻はむしろ悪声で、訛りがあるのをかえって居直って「阪妻節」に変えてしまったのである。 林屋辰三郎、加藤秀俊、梅棹忠夫、多田道太郎がチャンバラについて討論し纏めた一文に、つぎのようなものがある。 「阪妻が一代の剣豪スタアとして絶大な人気を博したのは、眇目に構えた独特のポーズにあった。それは青眼でない眇目の阪妻が見事に表現したからであろう。このように人生論的意味を身を持って表すことのできる俳優にして、はじめてスタアの座を確保できるのだ」 替え玉が必要な場面でも、大河内傳次郎と並んで阪妻は遠景の姿形の美しさにこだわり、どんなに遠くて顔が見えないショットでも「自分の形の見せ所だ」と言って替え玉にはさせなかった。『無法松』では、雪の中倒れる場面の撮影で中耳炎を発症。結局久世竜が替え玉を演じ、気づく者はいなかったが、阪妻は「いい仕事ができてよかったですね。だが、あの雪の場面が僕だったら、もっと、もっとよかったでしょう」とただ一人稲垣に不満を漏らしたという。 1942年(昭和17年)の大映創立記念作『維新の曲』は、阪妻、千恵蔵、右太衛門、アラカンという「四大スタア」の顔合わせで、配役と序列で会社は頭を悩ました。そのなか阪妻が行く先も知らさず姿を消し、「役か脚本、序列が気に入らないのだろう」と噂された。稲垣も会社への不満だろうと思い、阪妻の弟子に尋ねたところ、「誰にも言わないでください」と教えてくれた。実は阪妻は坂本龍馬の役作りのため、土佐の風土、方言、龍馬の足跡などを得るために土佐へ出かけていたのだった。出来上がった龍馬はそれまでの阪妻に見たことのない、誰もやったことのない一風変わった龍馬となっていて、人々を驚かせた。 役によっては、セットでもロケでも一人離れた場所に、着くずれのしないように自分で考案した高い椅子にちょいと尻を載せて、何時間でも出のくるのを静かに待っていた。ある作品で稲垣浩監督が敵役を背中から袈裟懸けに斬る殺陣を注文したところ、「この役は背中向きを斬るような役ではないと思いますが」と遠慮深く抗議した。これで役の性格が違ってくるわけだが、若かったせいもあり稲垣は無理を押し通して撮影に入った。ところが敵役は背中に刀が当たるものと思っていたが当たらない。相手役が「かまいませんから強く刀を当ててください」と頼んだところ、阪妻は憤然として「私は今まで随分立ち回りはしてきたが、人のからだに当てないのを身上としてきたので、それだけはいやだ」と断った。稲垣はその立派さに感心したと語っている。 1989年(平成元年)に文春文庫ビジュアル版として『大アンケートによる日本映画ベスト150』という一書が刊行されたが、文中372人が選んだ「個人編男優ベストテン」の一位は阪妻だった。死後35年余りを経て、なおこの結果だった。2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の7位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第8位になった。 息子の田村俊磨は、居間でセリフを練習するなど家でも阪妻そのものであったとし、田村正和は、ハートで演じるタイプの役者であったと思うと話した。
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