初期および政治への関与
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「アサ・アール・カーター」の記事における「初期および政治への関与」の解説
アラバマ州アニストンで生まれた。4人兄弟の長男。孤児であったと言うフォレスト・カーターの主張とは異なり、カーターは両親に育てられた。 第二次世界大戦中にはアメリカ海軍に従軍し、その後コロラド大学でジャーナリズムを専攻した。戦後カーターはインディア・セルマ・ウォーカー (India Thelma Walker) と結婚する。二人はアラバマ州バーミングハムに住み、4人の子供をもうけた。カーターは1953年から1955年まで地元のラジオ局WILDで放送作家として働いた。 1956年3月、カーターは人種隔離政策のスポークスマンとして全国ニュースに出る。彼は、全米有色人地位向上協会は不道徳なロックンロールのアルバムを通して、南部の白人青年達に取り入ろうとしていると語り、ジュークボックスを持っている人々に黒人歌手のレコードを取り除くように語り掛けた。 カーターは同じ年の9月1日と2日にテネシー州クリントンで反統一を訴えたスピーチを行って再び全国ニュースとなった。このスピーチはクリントンの高校に12名の黒人生徒が入学することを受けて行われた。報道によると、このスピーチの影響で200名の暴徒が黒人運転手のバスを止め、付属品をむしりとったり、窓を叩き割ったりするという事件が起こった。暴徒達は市長舎にも向かったが、地元の保安官に止められた。カーターは人種隔離政策主義者のジョン・キャスパー (John Kaspar) と共にクリントンに滞在していたが、キャスパーは後に扇動罪で起訴された。 1957年にカーターは、彼の兄弟ジェームズを含む4人と共に、バーミングハム警察との諍いが元で逮捕された。警察はその中の一人をKKKが起こした射撃事件と関連があるとみて逮捕しようとしていた。 1950年代にはクー・クラックス・クランの分派である民兵組織 Ku Klux Klan of the Confederacy (他のグループと区別するため、メンバーはグレーの衣装を着ていた)を組織し、白人種の優越性を科学的に解明するとし、反共産主義を掲げる月刊誌 The Southerner を発行した。カーターによる新しいグループのメンバーは、1956年4月にバーミングハムでコンサートを行った歌手のナット・キング・コールを攻撃した。また、4人のメンバーは1957年9月、エドワード・アーロン (Edward Aaron) という黒人男性を誘拐した。アーロンは去勢され、傷口にテレビン油を付けられ、車のトランクに入れられたままアラバマ州スプリングデールに放置された。アーロンは失血のため瀕死のところを警察に発見されたが、カーター自身はこの襲撃に直接関わっていなかった。1958年、資金に関する論争が元で二人のメンバーが射殺された後、カーターは自身が結成したグループを抜ける。バーミングハム警察は殺人の容疑でカーターを訴えるつもりであったが、後に取り下げられた。 カーターは同年、州副知事選に立候補したが、落選した。1963年には、当時のカーターの雇い主であったジョージ・ウォレスが任命した委員会により、アーロン襲撃を行った4人に対して減刑が行われた。 1960年代、カーターはジョージ・ウォレスのスピーチライターとなり、ウォレスによる悪名高いスローガンの一つ「今ここで人種隔離を!明日も人種隔離を!永遠に人種隔離を!("Segregation today, segregation tomorrow, segregation forever")」を書いた人物の一人となった。カーターはウォレスだけでなく、1966年にウォレスの妻 Lurleen がアラバマ州知事に立候補した際に彼女のスピーチライターとしても働いた。 一方、カーターの死まで、ジョージ・ウォレスはアサ・カーターなる人物を知らないと語っていたが、カーターはスタッフ達から本名ではなくエース('Ace')と呼ばれていたこと、給与はウォレスの取り巻き達から間接的に支払われていたことなどから、ウォレスのこの主張は真実であった可能性がある。 ウォレスは1968年アメリカ合衆国大統領選挙への立候補を決めたが、人種隔離政策を煽る扇動者だという自分に対する噂を和らげるため、カーターをキャンペーンに参加させないことをはっきりと示した。1960年代後半、カーターはウォレスに幻滅し、白人至上主義をマニフェストに掲げて1970年のアラバマ州知事選に出馬してウォレスと戦うことになったが、後に『リトル・トリー』で自身をチェロキーの血を引いていると書いたことを考えると皮肉な事だと言える。カーターの得票率は5人の候補者の中で最低の1.51% に留まり、選挙戦はウォレスの勝利で終わった。1971年の就任式では、カーターと彼の支持者達は"Wallace is a bigot" や "Free our white children"と書かれたサインを持ってデモを行った。このデモは、アサ・カーターが目立つ形で人前に出た最後の出来事となった。
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