初期から1847年まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/27 04:39 UTC 版)
「ジョセフ・アームストロング」の記事における「初期から1847年まで」の解説
カナダでしばらく過ごした後、ジョセフの父親トーマスがノーザンバーランド侯爵の管財人となったことから、1824年に一家はニューバーン(英語版)に居を定めた。ジョセフはニューカッスル・アポン・タインのブルース学校に入ったが、そこではロバート・スチーブンソンも生徒として学んでいた。1823年にロバート・スチーブンソンは、彼の父親ジョージ・スチーブンソンとともに機関車工場を町に立ち上げた。これに加えてニューバーンはワイラム軌道の一方の端に位置しており、有名なパッフィング・ビリー(英語版)号やワイラム・ディリー(英語版)号などの姿が若いジョセフの技術者としての熱意をかきたてたに違いない。ニューバーンには定置式蒸気機関で運転される炭鉱鉄道もあり、その中にジョセフが最初の職を得たウォルボトル炭鉱もあった。 スチーブンソン一家との知己に加えて、アームストロング一家にとって重要な関係となったのが、1825年に真新しいストックトン・アンド・ダーリントン鉄道の初代機関車総監督となった、メソジストの慈善家でもあるティモシー・ハックワース(英語版)であった。ハックワースを通じて、10代のジョセフはストックトン・アンド・ダーリントン鉄道で機関車の運転経験を得たと思われ、また後にグレート・ウェスタン鉄道のスウィンドン工場において大きな責任ある立場となった際に有名となる彼の人道的で宗教的・社会的なものの見方にハックワースが強く影響したと示唆されている。 その一方で、当時の発展し始めたばかりの蒸気機関車に関する実践的な経験を学び続け、1836年に20歳でスチーブンソンが建設したリバプール・アンド・マンチェスター鉄道の機関士として、エドワード・ウッズ(英語版)に雇われた。その4年後、ハル・アンド・セルビー鉄道(英語版)の同様の職に移り、そこで主任に昇格し、またジョン・グレイ(英語版)の先見の明のある機関車設計に触れた。グレイを追って1845年にブライトン工場へ移り、アームストロングはそこでまた他の創始期の機関車技術者であるデービッド・ジョイを知ることになった。
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