写真家としてのキャリアとファルサーリ商会
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「アドルフォ・ファルサーリ」の記事における「写真家としてのキャリアとファルサーリ商会」の解説
1883年にファルサーリは商業写真の分野へも事業を拡大すべく、独学で写真術を学びだした。1885年には日本人写真家の玉村康三郎と提携し、シュティルフリート・アンド・アンデルセン スタジオを買収、15人の日本人従業員を雇い入れた。 このスタジオには1877年にフェリーチェ・ベアトが撮影した写真が残されていた。 ファルサーリと玉村とのパートナー関係がいつまで続いたかははっきりしておらず、数年後にはお互いに競合する関係になっている。ファルサーリは1885年にさらに事業を拡大しており、デイヴィッド・ウェルシュの「横浜写真商会 (Yokohama Photographic Company) 」が倒産した時にはその建物を買い取って移り住んだ。 このころには横浜だけではなく、神戸と長崎にも代理人がいたといわれている。 1886年終わりには、ファルサーリと中国人写真家のTong Cheongの二人だけが日本で活動していた外国人商業写真家で、そのTong Cheongも数年後に日本を去ることとなる。 1886年2月に火災が発生し、所蔵していたネガがすべて消失してしまったため、その後ファルサーリは5カ月に渡って日本中を旅し、新しい写真を撮影している。1887年にスタジオを再開し、1889年には1,000枚を超える日本の風景写真や風俗写真を所蔵していた。 シュティルフリート・アンド・アンデルセンスタジオの買収によりベアトとライムント・フォン・シュティルフリート の業績を引継いだファルサーリは、写真集も手がけるようになった。彼のスタジオではモノクロの鶏卵紙写真 (Albumen print) を人工彩色したものをアルバムに仕立てて販売した。これらのアルバムのページは手作業で装飾されており、綾織や、象牙、真珠、金などを用いた蒔絵や螺鈿細工のカバーで綴じられていた(蒔絵アルバム)。 ファルサーリはその当時よく見られたように写真に説明書きをつけ、ナンバリングし、ときには黒地に白文字でこれらを書いている。 ファルサーリは在留外国人と外国人旅行者にこれらのアルバムを多く販売している。彼は、一日あたり2, 3枚の彩色写真を高品質で仕上げることが出来る熟練した職人を雇っていた。 ファルサーリは写真の彩色が実物そのままで、最高の素材を使用して彩色されていることを保証しており、それらは高価であったが、顧客から高い評価を受け、1889年に横浜を訪れたラドヤード・キップリングにも絶賛された。 また、この年にファルサーリは豪華な蒔絵アルバムをイタリア王に献上している。 1890年代には彼のスタジオの評価は日本の皇室御料地の撮影権を独占するまでに高まった。 ファルサーリ商会では、将来見込みがあると見なされた彩色職人はファルサーリ自身から面接を受け、日本画の技術に精通しているかどうかを確かめられた。商会に雇われると、数ヶ月の賃金なしの試用期間を経て正式に賃金を受け取るようになる。ファルサーリがその仕事ぶりに満足するにつれて、職人の基本給は着実にあがっていった。有能で真面目な職人は、当時横浜にあった他のスタジオの倍の報酬を得ており、日曜日に仕事をするとさらに倍の日給を得ることができ、その他にも定期的なボーナスや贈り物も受けていた。このような金銭的な好待遇の一方で、ファルサーリは彼の姉妹に、スケジュールを守るためには、職人たちを怒鳴り、罵り、ときには殴りつけて、やる気を出させなければならないと書いた手紙を出している。1891年までにファルサーリ商会は32人の従業員を雇い入れており、そのうち19人は彩色職人であった。 1885年にファルサーリと日本人女性との間に「きく」という名前の娘が生まれているが、この女性と正式に結婚したかどうかは分かっていない。当時の彼の書簡によると、厭世家のように暮らし、仕事とは関係のないごく限られた人々とのみ交際していると書いており、彼のイタリアへの望郷の念がますますつのっていたことを表しているとされる。彼はアメリカに移住したときに失ったイタリア市民権を回復しようと試みており、さらに騎士階級になりイタリア貴族階級の一員となることを望んでいた。ファルサーリのこういった希望が叶ったかどうかはよくわかっていないが、1890年に彼と彼の娘は日本を離れイタリアに向かっている。その後ファルサーリは1898年2月7日に故郷のヴィチェンツァで死去した。 1890年にファルサーリが日本を離れてからも、ファルサーリを名目上の経営者として横浜のスタジオは存続し、1901年以降は数人の日本人が経営者となり、1906年までは会社として登録されていた。その後も少なくとも1917年まではスタジオとして活動していたが、1923年の関東大震災の被災によりその歴史に終止符を打つこととなる。ファルサーリ商会は、日本で外国人が所有していた、最後の著名な写真スタジオとなった。
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