写真家としてのキャリアとファルサーリ商会とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 写真家としてのキャリアとファルサーリ商会の意味・解説 

写真家としてのキャリアとファルサーリ商会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/25 16:14 UTC 版)

アドルフォ・ファルサーリ」の記事における「写真家としてのキャリアとファルサーリ商会」の解説

1883年にファルサーリは商業写真分野へも事業拡大すべく、独学写真術学びだした。1885年には日本人写真家玉村康三郎提携しシュティルフリート・アンド・アンデルセン スタジオ買収15人の日本人従業員雇い入れた。 このスタジオには1877年フェリーチェ・ベアト撮影した写真残されていた。 ファルサーリと玉村とのパートナー関係がいつまで続いたかははっきりしておらず、数年後にはお互いに競合する関係になっている。ファルサーリは1885年にさらに事業拡大しており、デイヴィッド・ウェルシュの「横浜写真商会 (Yokohama Photographic Company) 」が倒産した時にはその建物買い取って移り住んだこのころには横浜だけではなく神戸長崎にも代理人がいたといわれている。 1886年終わりには、ファルサーリと中国人写真家Tong Cheongの二人だけ日本活動していた外国人商業写真家で、そのTong Cheongも数年後日本を去ることとなる。 1886年2月火災発生し所蔵していたネガがすべて消失してしまったため、その後ファルサーリは5カ月渡って日本中を旅し新し写真撮影している。1887年スタジオ再開し1889年には1,000超える日本の風景写真風俗写真所蔵していた。 シュティルフリート・アンド・アンデルセンスタジオの買収によりベアトライムント・フォン・シュティルフリート業績引継いだファルサーリは、写真集手がけるようになった彼のスタジオでモノクロ鶏卵紙写真 (Albumen print) を人工彩色したものをアルバム仕立てて販売した。これらのアルバムのページ手作業装飾されており、綾織や、象牙真珠、金などを用いた蒔絵螺鈿細工カバー綴じられていた(蒔絵アルバム)。 ファルサーリはその当時よく見られたように写真説明書きをつけナンバリングし、ときには黒地白文字でこれらを書いている。 ファルサーリは在留外国人外国人旅行者にこれらのアルバム多く販売している。彼は、一日あたり2, 3彩色写真高品質仕上げることが出来熟練した職人雇っていた。 ファルサーリは写真彩色実物そのままで、最高の素材使用して彩色されていることを保証しており、それらは高価であったが、顧客から高い評価を受け、1889年横浜訪れたラドヤード・キップリングにも絶賛された。 また、この年にファルサーリは豪華な蒔絵アルバムイタリア王献上している。 1890年代には彼のスタジオ評価日本皇室御料地の撮影独占するまでに高まった。 ファルサーリ商会では、将来見込みがあると見なされた彩色職人はファルサーリ自身から面接を受け、日本画技術精通しているかどうか確かめられた。商会雇われると、数ヶ月賃金なしの試用期間経て正式に賃金受け取るようになる。ファルサーリがその仕事ぶり満足するにつれて職人基本給着実にあがっていった。有能真面目な職人は、当時横浜にあった他のスタジオの倍の報酬得ており、日曜日仕事をするとさらに倍の日給を得ることができ、その他に定期的なボーナス贈り物受けていた。このような金銭的な待遇一方で、ファルサーリは彼の姉妹に、スケジュールを守るためには、職人たちを怒鳴り罵りときには殴りつけて、やる気を出させなければならないと書いた手紙出している。1891年までにファルサーリ商会32人の従業員雇い入れており、そのうち19人は彩色職人であった1885年にファルサーリと日本人女性との間に「きく」という名前の娘が生まれているが、この女性と正式に結婚したかどうか分かっていない。当時彼の書簡によると、厭世家のように暮らし仕事とは関係のないごく限られた人々とのみ交際していると書いており、彼のイタリアへ望郷の念がますますつのっていたことを表しているとされる。彼はアメリカに移住したときに失ったイタリア市民権回復しよう試みており、さらに騎士階級になりイタリア貴族階級一員となることを望んでいた。ファルサーリのこういった希望叶ったかどうかはよくわかっていないが、1890年に彼と彼の娘は日本離れイタリア向かっている。その後ファルサーリは1898年2月7日故郷ヴィチェンツァ死去した1890年にファルサーリが日本離れてからも、ファルサーリを名目上経営者として横浜スタジオ存続し1901年以降数人日本人経営者となり、1906年までは会社として登録されていた。その後少なくとも1917年まではスタジオとして活動していたが、1923年関東大震災被災によりその歴史終止符を打つこととなる。ファルサーリ商会は、日本外国人所有していた、最後著名な写真スタジオとなった

※この「写真家としてのキャリアとファルサーリ商会」の解説は、「アドルフォ・ファルサーリ」の解説の一部です。
「写真家としてのキャリアとファルサーリ商会」を含む「アドルフォ・ファルサーリ」の記事については、「アドルフォ・ファルサーリ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「写真家としてのキャリアとファルサーリ商会」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「写真家としてのキャリアとファルサーリ商会」の関連用語

写真家としてのキャリアとファルサーリ商会のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



写真家としてのキャリアとファルサーリ商会のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのアドルフォ・ファルサーリ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS