写真家としての試み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 04:33 UTC 版)
「ジェイコブ・リース」の記事における「写真家としての試み」の解説
リースは警察担当記者を務める中で、自らが目にしているものを人々に見せたいと思うようになっていった。スラムの記事を新聞に書いても手応えを感じられず、一方でスケッチには期待ができなかった。しかし1887年のある日、ドイツでフラッシュを用いた撮影方法が発明されたというニュースを新聞で見たリースは、ここに活路を見出した。 当時のフラッシュはマグネシウム閃光粉にマッチで火をつけるというものであり、大きな音を立てて爆発するので非常に危険であった。このやり方によってリースの家は二度火事になり、体に引火したことも一度あった。この時は眼鏡をかけていたので失明は免れた。 リースはフラッシュ撮影の可能性を悟り、友人のジョン・ネーゲル(John Nagle)博士にこのことを知らせた。彼は市の保健当局の人口統計事務局長であり、気鋭のアマチュア写真家としても知られていた人物であった。ネーゲルはもう二人の写真家友達、ヘンリー・ピファード(Henry Piffard)とリチャード・ホウ・ローレンス(Richard Hoe Lawrence)に声をかけ、4人はスラムを写真に撮り始めた。彼らの最初の報告は1888年2月12日にニューヨークの新聞、『ザ・サン』紙に載せられた。これはリースによる署名のない記事であり、著者については「実際にはそうではないが、人格の中にロングアイランドの教会の助祭とニューヨークの警察担当記者という二つの尊厳を持っているエネルギッシュな紳士」と描写している。また「ゴッサムの犯罪と日中夜に渡る惨状の写真」は「教会や日曜学校などで公開される『もう半分:ニューヨークでどのように生きて、死んでいくか』と題された講演会の基礎になるもの」と説明されている。記事は写真をもとに12の線画で描かれた。 リースと仲間の写真家はフラッシュ撮影を取り入れた初めてのアメリカ人であった。ピストル・ランプは危険で恐ろしく、またフライパンの上でマグネシウムの閃光粉に着火するというリースの別の方法にまもなくとって変わられそうであった。しかしその方法の中にはレンズキャップを外し、閃光粉に着火し、レンズキャップを交換するという手順も含まれており、着火に要する時間で時々フラッシュが作り出す明らかな画像のブレが生まれてしまっていた。 リースの最初のチームはすぐにこの時間の遅れに辟易し、リースは他の助けを借りなければならなくなった。彼のアシスタントは二人とも怠惰で、一人は不誠実であったので、リースが買った板を売ってしまった。そこでリースはアシスタントを法廷で告訴することに成功した。またリースはネーゲルに自分のことは自分でやるべきだと提案されたので、1888年1月、25ドルを払って大判カメラとプレートホルダー、三脚、そして現像や印刷に関する機材を購入した。彼は実践のためにハート島のポッターズ・フィールドに機材を持って行き、2枚撮った。結果はひどく露出過度であったものの、成功に終わった。1870年代から1880年代にかけてのハンドカメラや乾板ネガの発明はリースのようなアマチュアの撮影を可能にしたのであった。 しかしリースにはあくまで自分は写真家ではなくジャーナリストであるという自覚があり、写真はあくまで彼が書いた「事実」を裏付ける手段でしかなかったため、彼にとってはテクストの方が重要であった。従って写真家としては二流だったというのが彼の口癖であったし、1898年には写真撮影をやめてしまう。このため、リースによるものとされている写真のうち、紛れもなくリース本人が撮った写真は全体の半分強である。
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