光の球場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 02:07 UTC 版)
「東京スタジアム (野球場)」の記事における「光の球場」の解説
東京スタジアムの設計のモデルとなったのはアメリカのサンフランシスコにあり、かつてサンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地だったキャンドルスティック・パークやシカゴに存在しシカゴ・ホワイトソックスの本拠地だったコミスキー・パークで、場内に設けられた6基の照明塔は当時日本では一般的だった送電塔のような無骨な鉄骨作りではなく、2本のポール型鉄塔がサーチライトを支えるという当時としてはモダンな構造だった。 二層式の内野スタンドに設置された強化プラスチック製の座席は、エリア別に青(外野席と一・三塁側内野自由席)、黄(一・三塁側内野指定席B)、赤(年間指定席を含む内野指定席A)に色分けされ、シートピッチが広く取られていたため「ゆったり座れる」と評判だった。1階スタンドと2階スタンドの間には、日本の野球場では初のゴンドラ席が67席(うち貴賓席1、ゲストルーム4)設けられた。 スコアボードには本塁打が出ると「HomeRun」と書かれた電光看板が点灯する演出もあった。また、スコアボードに設置された大時計は当時としては画期的なデジタル表示式であった。フィールドは外野だけでなく内野のインフィールド部分にも天然芝が敷設され、ファウルエリアは球場敷地が狭隘なためやや狭く、内野フェンスも低かったが、「選手がすぐそばに見える」と観客には好評だった。なお、天然芝については有藤通世が「あまり手入れしてないみたいで、芝が長かったり短かったり不揃いで、守りにくかった」といったことを証言している。 エントランス部にはスロープ式の通路を採用し、観客を地平部からスタンド下の通路に直接誘導する手法が用いられた。これは観客と選手、関係者の動線を分離してスムーズな入退場が行えるよう配慮して設計されたものだが、現在で言うところのバリアフリーにも通ずる概念であると評価する向きも多い。 開場前の1962年5月23日、夕方から雨中で行われた照明設備の点灯テストで、当時としては高照度の1600lxの灯に照らされたスタジアムを見て、永田オーナーは記者陣を前に「どうだ。これだったら後楽園球場もビックリだろ」と高らかに笑って見せたという。永田は当時セ・リーグ、とりわけ巨人に対して強烈なライバル意識を持っていた。その一端を示す事柄として、他のセ・リーグの首都圏球団である国鉄(後にサンケイ、ヤクルト)や大洋には東京スタジアムでの主催試合開催を許可したものの、最も収益が期待できるはずの巨人にだけは、基本的に最後までスタジアムの貸出を拒否し続けたということが挙げられる。 スタンド下には選手用の設備が充実していた。内野スタンド下に設けられた幅約6mで2人が同時に投球できる屋内ブルペンをはじめ、ダッグアウト裏にもトレーナー室や医療室など諸室が整っていた。最も好評だったのはロッカールームで、当時オリオンズに在籍していた醍醐猛夫は「それまで(後楽園など)は隣の選手と身体をぶつけながら着替えていたが、東京球場ではのんびり椅子に腰掛けることもでき、隣席のジョージ・アルトマンと小遣いを出し合って冷蔵庫を置いて、試合後に火照った身体を癒すビールやコーラがおいしかった」と振り返っている。また、選手専用の食堂も広く取られ、内装もよく、メニューも充実していたため、選手からは「銀座の一流料理店みたいだ」と評判が高かった。 これらの諸室は現在では多くの本拠地球場で整備されているが、このような大リーグ式の環境に当時の選手、特に設備の大きく劣る球場が多かったパ・リーグの他球団の選手からは大喜びされていたという。 また、開場当時の外野フェンスはコンクリート製であったが、選手が激突して負傷する事故が起きたため、1966年3月に日本の球場では初となるラバーフェンスが導入された。 しかし、前述の通り敷地が狭隘であるため、フィールドは狭かった。公認野球規則で定められた広さを無視して設計された両翼90m、中堅120mのフィールドは当時の後楽園球場(公称値)と同じだったものの、左中間および右中間が一直線で膨らみが全くないため、「本塁打量産球場」とも揶揄され投手には不利な野球場だったが、永田は「打たれたらその分、ウチ(オリオンズ)が打ち返せ」と意に介さなかった。 その中で、その狭隘さをものともしなかった投手が小山正明だった。小山は「針の穴を通す」と評される抜群の制球力が持ち味だったが、1963年秋に山内一弘との交換トレードで阪神からオリオンズに移籍した当初、周囲からは「狭い東京球場に移る小山が圧倒的に不利」と懐疑的な評価が下された。だが、小山は狭隘な東京スタジアム対策としてパームボールを駆使し、移籍初年度の1964年に30勝を挙げて同年パ・リーグの最多勝に輝くと、1973年に大洋に移籍するまでオリオンズのエースとして活躍した。 当時の南千住にはマンションなどの高層建築物はなく、低い平屋や二階建ての住宅が建ち並ぶ下町の街並みに忽然と現れた巨大なスタジアムから、夜になるとナイター照明が放つ光が周辺に瞬く光景からしばしば「光の球場」とも形容されていた。しかし、一方でナイター終了後に照明が消えると夜蛾が一斉に周辺の民家になだれ込んだため、一種の公害にもなっていた。
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