保存機からの復元
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「国鉄8620形蒸気機関車58654号機」の記事における「保存機からの復元」の解説
九州でのSLの復活は1987年(昭和62年)7月4日に「1989年の門司港開港100年と九州鉄道100年の記念イベントとして蒸気機関車を復活させよう」という北九州市長末吉興一と、JR九州社長石井幸孝との約束に始まったという。同年7月20日に復活が決定し、プロジェクトチームが発足した。 九州に静態保存してあるSLは当時50両以上あったが、多くは野ざらしで、屋根付で手入れされているものはほとんどなかった。しかし人吉市SL展示館に保存されていた本機とD51 170は小屋付きで、ボランティアによってきれいに手入れされ、保存状態がきわめてよかった。このうち、少ない経費で復元できる、運転線区に制限を受けない形式である、経済的な性能で取り扱いが容易、という理由で58654が選ばれた。 1987年(昭和62年)年8月1日の返還要請に対して、人吉市の了承が同年12月11日であったのは、ボランティアへの説得に時間がかかったためだという。58654はそのままでは運べないので、ボイラー、台枠、炭水車に3分の上、1988年(昭和63年)1月9日から翌10日にかけて、矢岳駅から小倉工場までトレーラーで搬送された。同工場到着から2日後の12日に、起工式が行われた。 小倉工場では大がかりな修復が実施されることになる。ボイラーは使用できなくなっていたので新日本製鐵に依頼し、新製された。運転室は鋼板が衰弱していたため新製した。ランボードも劣化が進んでいたため交換されたが、本来使用されていた網目板は製造中止されていたため縞鋼板で代用された。焚き口は煤煙対策と性能向上のため重油併燃装置を取り付けた。炭水車の炭庫下部に重油タンクを取り付けたため、炭水車上部を30 cmかさ上げし、水タンク容量も2 t増となった。輪軸はそのまま使用した(のちに交換)。動輪は摩耗限度に近かったので住友金属工業で新たに製作し交換した。車輪の焼きバメは、1,600 mmの車輪の焼きバメ装置が小倉工場にはなく、住友金属工業小倉製鉄所で車輪を焼き、保温して小倉工場に持ち込み焼きバメした。除煙板は現役末期・静態保存時は下部切り取り形のいわゆる「門鉄デフ」の中でも板部分の面積の広い特徴ある形態であったが、修復の際に板部分の面積が標準サイズのものと交換された。 新製車両としての法的手続きの確認申請も必要だった。なお、この手続きは1988年(昭和63年)6月28日に完了した。小倉工場では同年7月2日に火入れ式を、12日に構内走行試験を行ったのち、21日に同工場を出場した。回送は主連棒を取り外し、夜間に無動力回送を行った。翌22日に熊本運転所に到着して整備され、26日付で車籍が復活した。同日には熊本 - 吉松間で本線試運転を行い、28日から8月15日にかけて客車を牽引して訓練運転を行った。22日に熊本 - 人吉間で、翌23日に人吉 - 吉松間でお披露目運転を行ったのち、28日には豊肥本線熊本 - 宮地間の「SLあそBOY」として、10月9日には肥薩線熊本 - 人吉間の「SL人吉号」として、アメリカ風(ウェスタン調)に改装された50系客車とともに営業運転を開始した。 再登場当時はほぼ原型であったが、1992年(平成4年)に「SLあそBOY」運転開始5周年を迎え、客車のイメージに合わせて、JR九州のデザイン関係を一手に受け持つ水戸岡鋭治の監修下に濃緑色に塗装され、炭水車の側面にロゴが大書きされるようになった。その後除煙板が取り外され、カウキャッチャーが取り付けられたこともあった。沿線の山林で列車通過後に火災が起きたことから、1994年(平成6年)からは回転火の粉止めを装備し、体裁を整えるためダイヤモンドスタック型の煙突カバーが常用されるようになった。また、ATSもATS-SK形に換装された。1999年(平成11年)7月18日から8月31日までは特別に「銀河鉄道999号」として運行され、999ヘッドマークが取り付けられたほか、炭水車に『銀河鉄道999』のメーテル・星野鉄郎のイラストが掲示された。2000年(平成12年)からは塗装が黒に戻され、真鍮飾り帯を除く各種装飾や炭水車のロゴが消された。
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