人物略伝
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日本へ留学中の1926年6月、留学生達を中心に「協同組合運動社」を組織した。そして協同組合運動の理論研究に取り組む傍らで、朝鮮に宣伝隊を派遣して組織作りに取り組んだ。1927年1月、彼の実兄である銭俊漢によって慶尚北道尚州咸昌面に「咸昌協同組合」が設立され、全国各地に同様の組織が相次いで設立された。28年に帰国後、彼は「協同組合運動社」本部をソウルに移して協同組合運動に取り組む始めたが、同年、治安維持法違反で逮捕され、2年間服役した。出獄後、数回にわたって拘禁され、1945年8月の解放まで隠遁する日を送った。解放後、ソウルに戻って「協同組合社」を再建、委員長に就任した。翌46年には大韓労働総連盟委員長に就任、48年の制憲議会選挙に出馬して当選を果たし国会議員となり、以後通算5期務めた。48年8月に大韓民国政府が発足すると、社会部(現大韓民国保健福祉部)の初代長官に就任した。1949年にロンドンで開催された国際自由労働組合総連盟発足大会に参加し、理事に選出、同時に同連盟のアジア地区副議長にも選ばれた。1955年には労農党を、60年には韓国社会党を結成するなど、韓国労働運動の先駆者、進歩主義政治家として活動した。
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人物・略伝
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大阪府出身。北野中学校在学中に歴史研究、とくに日本近世思想史をこころざし、浪速高等学校在学中に吉田松陰の『講孟余話』の輪読会に参加した。その際、吉田松陰の思想を理解するには中国古典の理解の必要性を感じ、併せて、終戦後の歴史の転換点に遭遇し、日本を理解するには中国を理解せねばならないと思い、東洋史研究に転向した。 大庭の研究分野は多岐に亙るが、彼の語るところによるとその研究分野は3つに大別できるという。それは、 中国古代、特に漢代の法制史の研究 唐代を中心とする告身の研究 江戸時代、中国から輸入された漢籍に関する研究 である。 漢代法制史の研究は、大庭の学究生活のなかで一番長く行われた研究領域であった。1901年に、スウェン・ヘディンとオーレル・スタインが中国西辺で発見した漢代の木簡を活用した点が、彼の研究の最も大きな特色である。博士学位請求論文である『秦漢法制史の研究』や『漢簡研究』は、大庭の漢代法制史研究の集大成といえる著書である。また、木簡解読のために隷書を中心とした中国書道史の研究もおこなった。 日中交流史、特に江戸時代の漢籍輸入・受容の研究については、昭和38年(1963年)、関西大学教授石濱純太郎を中心とする文部省科学研究費補助による総合研究、「江戸時代京阪における漢学の研究」に参加したことが、この分野の研究をはじめる契機となった。内閣文庫(当時。国立公文書館)などに収蔵される輸入漢籍を悉皆調査し、その成果を『江戸時代における唐船持渡書(とうせんもちわたりしょ)の研究』にまとめ、同書の研究編を増補したのが、『江戸時代における中国文化受容の研究』である。この研究により、昭和61年(1986年)に第76回日本学士院賞を受賞した。また、この分野においては多数の資料集や啓蒙書をのこすとともに、この分野から派生した、輸出陶磁器の蒐集や研究、徳川吉宗がベトナムから買い寄せた象の研究などをおこなった。
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