人物画への移行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:37 UTC 版)
1882年、第7回印象派展が開かれた。グループ内では、ドガとその仲間、特にジャン=フランソワ・ラファエリを参加させるかが大きな争いとなった。ピサロもカイユボット、ベルト・モリゾ、モネ、デュラン=リュエルなどと連絡をとりながら、ドガとの争いを調停しようと努力した。結局、デュラン=リュエルの周旋により、モネ、ルノワールらが復帰する一方で、ドガは不参加となった。モネ、ルノワール、シスレーの出品作の多くはデュラン=リュエルの所有であり、ピサロは「デュラン=リュエルの要員」による展覧会のようだと苦言を呈した。1880年代初頭から、ピサロは従来の風景画家から、人物画家へと移行しており、第7回展には、戸外の人物画を中心とする36点を出品した。しかし、こうした人物画は批評家からジャン=フランソワ・ミレーの模倣だと批判された。 1882年末、ポントワーズの家の家賃が上がったことから、ピサロ一家はその北西にあるオニー(英語版)に移った。1883年5月、デュラン=リュエルがマドレーヌ大通り(英語版)に新しく開いた画廊で、ピサロの初の個展が開かれ、作品70点が展示された。個展は成功したが、ピサロは印象派の画風に飽き足らないものを感じていた。 1883年10月から11月にかけて、ミュレがホテルを開業したルーアンを訪れ、港の風景を描いた。戸外制作のため、天気が変わると状況が一変してしまい、続きを描くことができなくなるという困難に直面しながらも17枚の絵画を仕上げ、うち7枚をデュラン=リュエルが購入した。これがピサロの都市シリーズの端緒となった。 『カフェ・オ・レを飲む若い農婦』1881年。油彩、キャンバス、65.3 × 54.8 cm。シカゴ美術館。第7回印象派展出品。 『田舎の幼い女中』1882年。油彩、キャンバス、63.5 × 53 cm。ナショナル・ギャラリー(ロンドン)。 『ルーアンのナポレオン埠頭』1883年。油彩、キャンバス、54.3 × 64.5 cm。フィラデルフィア美術館。
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