不幸な連邦大統領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 04:08 UTC 版)
「ハインリヒ・リュプケ」の記事における「不幸な連邦大統領」の解説
1959年7月1日、第2代連邦大統領に選出され、9月13日に就任した。本当はアデナウアーは自分の政権延命のためにライバルのルートヴィヒ・エアハルトを実権のない連邦大統領に祭り上げたかったが、拒絶されてリュプケに御鉢が回ってきたのだという。リュプケは1964年に再選され、合計2期10年を務めることになる。彼の在任中、とりわけ2期目には、演説などでの言い間違いや支離滅裂になることがしばしばあった。当時は原稿を見ないで喋ったためだと説明されていたが、のちに分ったことであるがこの頃すでに彼は脳梗塞の症状に侵されていた。当時この不幸に気付く者はおらず、彼の「言い間違い」を報じるためだけに多くのジャーナリストが外遊に同行した。 実際にマダガスカル訪問時に夫人と首都の名前を取り違えた程度の間違いはあったとはいえ、たとえばリベリア訪問時に「紳士淑女の皆さん、親愛なるニガー」と言ったという都市伝説さえ生んでいる。ドイツ語で„Gleich geht's los!“(すぐ始まるよ)と言おうとして英語で„Equal goes it loose“と言い間違えたとされるのもこの類である。彼の「失言」は漫談師やマスコミの格好のネタになり、バイエルン放送はリュプケを題材にした漫談の生放送を避けたくらいであった。彼の言い間違いを集めたレコードさえ出ている。1966年の1966 FIFAワールドカップの際、西ドイツとイングランドの決勝戦で、ゴールか否かでもめたイングランドの3点目(結果的に決勝点)を「球は入っていた」と述べ、また叩かれた。 さらには、東ドイツのメディアがリュプケを「ナチス強制収容所の現場監督」と呼んでいる、と西ドイツのメディアに報じられた。これはもともと東ドイツの国家保安省が西ドイツの連邦大統領の威信を落とすために仕組んだものであったが、今日の研究者は実際にリュプケが強制収容所と関わりがあったのは否定できないとしている。1968年には雑誌「シュテルン」が、ナチスによって強制労働に従事させられた労働者の収容所の設計図に、リュプケのサインがあると報じた。連邦議会選挙を控えていたこともあり、批判にさらされたリュプケは任期を3か月残して1969年6月に連邦大統領職を辞した。分裂ドイツ問題や独立間もないアフリカ諸国への支援に心を砕いたほか、連邦議会の可決した法案がドイツ連邦共和国基本法に抵触するとして、承認の署名を拒否するほど高い見識を有した連邦大統領としては、不幸な退任であった。 連邦大統領は退任後は定職に就くことは許されず、かといって名誉職も健康状態が許さなかったため、リュプケは隠棲して5000冊の蔵書に囲まれ、趣味である比較言語学や微生物学の研究に没頭した。CDUの党友でさえ退任後の彼をほとんど無視したが、唯一の例外は後任の連邦大統領だったグスタフ・ハイネマンだったという。晩年療養のためにカナリア諸島のテネリフェ島で休暇を過ごしたが、健康状態は好転しなかった。やがて言語障害や健忘を起こすようになる。彼は1972年3月30日に胃の出血により手術を受けて進行した胃癌が発見されたが、それは脳にまで転移していたのである。2度の喀血ののち、4月6日に77歳で亡くなった。死後、ケルン大聖堂で国葬を以て送られた。 彼は長らく属する宗派がカトリックの唯一の連邦大統領であったが、2010年7月に同じカトリックのクリスティアン・ヴルフが第10代連邦大統領に就任した。
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