上からの近代化改革
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軍事面では、6月16日にはイェニチェリ廃止の布告とともに、かねてから宣言していた「ムハンマド常勝軍」と名づけた新式軍隊を設立した。ヨーロッパの兵制に倣ってムハンマド常勝軍の総司令官としてセラスケルの職が新設され、オスマン帝国において初めて陸軍が一元的な指揮系統に統合された。軍隊を拡大するために1834年に広く国民から人材育成をするための陸軍士官学校が設立された。 また、長らく形骸化していたもののなおも存続していたティマール制を正式に廃止し、ティマール制によって維持されていた在地騎兵スィパーヒーを解体して陸軍の騎兵隊に統合した。ナヴァリノの海戦での敗北後は更なる強力な軍艦の建築に専念した。 政治の面では、君主の代理人として絶大な権力をふるってきた大宰相の権限縮小をはかろうとした。それまでの大宰相は絶大な権限を行使しており国政の実質的な最高責任者で戦時中には自ら前線に赴き最高司令官としての役割を果たしていたが、大宰相府は分割され、外務大臣、内務大臣、財務大臣、司法大臣などの大臣職を置いた。そして、これまで大宰相が主催してきた帝国の最高意志決定機関である御前会議(ディーワーヌ・ヒュマーユーン)は閣議に改められ、オスマン帝国の伝統的政治体制は西洋式の内閣制度に近づけられていった。マフムト2世最晩年の1838年には、大宰相の官名も総理大臣(首相)に変更されている。反動勢力によって廃止されていた大使館制度も復活させた。 首都ではモスクのメクデブで代行されていた初等教育の義務化を試みた。さらに中等教育のための西洋式の中学校としてリセが開かれている。また、一般官吏の養成と任用をはかるマフムト2世学校も設立された。 保守派の牙城であった宗教勢力に対しては、イェニチェリの廃止と前後してイスラム神秘主義のベクターシー教団を閉鎖させたり、宗教関係者の経済的基盤であるワクフ(寄進財産)を政府の管理下に入れたりすることで、宗教勢力の力を削いでいった。オスマン帝国の宗務行政において、最高の地位にあったシェイヒュルイスラームも、これまでの超然とした地位を改められ、「長老府」と呼ばれる宗務行政の最高官庁の長官とされ、閣議のメンバーに加えられるなど、政府機構の中に取り込まれていった。 1833年には、ギリシア独立戦争の勃発によってこれまで帝国の通訳官を務めてきたギリシア人が登用できなくなった穴を埋めるために翻訳局が設立され、オスマン帝国の若手官僚の中から、西洋の言語に通じ、通訳官・外交官として活躍できる人材が育成されていった。 また、従来の徒弟制的な家内教育と宗教勢力による学校教育が大勢を占めていた教育の分野も近代化がはかられ、軍医学校、音楽学校、士官学校などの近代的教育機関が創設された。彼らのうちの優秀なものたちは西洋に留学に派遣され、次世代を担うエリート改革官僚層を形成してゆくことになる。 文化の上でも、ムハンマド常勝軍で採用されていた西洋式の制服とトルコ帽が1829年に宗教関係の分野を司ってきたウラマーを除く全ての文官にも採用され、オスマン帝国の服制に洋装が取り入れられた。 これらのほかにも、マフムト2世期の重要な改革として、常設大使館の設置、官報の創刊、郵便制度の創設などがあげられる。 地域ごとに人口調査も行われ、これを機に地域の区域ごとに正、副の長が任命され(もしくは選ばれ)、納税者の全国調査も行われた。住民登録、通行証明書の発行、税金の割り振りが行われ、1834年に一部地域で資産と収入の調査も行われた。 ほかにも土地や家畜に課税されるハラージュの廃止、裁判の控訴制度を導入した。マフムトはイスラム教で忌み嫌われていた飲酒に関しても緩和する勅令を出して、これ以降上流階級では飲酒が平然のように行われるようになった。 このように、マフムト2世は様々な改革を専制的に実施し、オスマン帝国近代化の歴史に大きな足跡を残した。しかしその急速な西洋化改革は多くのムスリム(イスラム教徒)国民の反感を招き、マフムト2世は「異教徒の皇帝」とあだ名されたという。
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