イェニチェリの廃止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 16:42 UTC 版)
1826年、マフムト2世はついに反改革・保守派勢力の牙城である旧式軍イェニチェリを撃滅する意を決し、新軍団の設立を宣言して、イェニチェリを挑発した。 6月14日、イェニチェリはマフムト2世に対して反乱を起こすが、マフムト2世はウラマーから反乱の正当性を否定する意見を取り付けていた。また、イェニチェリは都市の顔役として横暴に振舞うようになっていたため、もはや首都の住民たちにはまったく支持されていなかった。 このため、反乱軍は新式の装備を整えた砲兵隊に猛攻を加えられて瞬く間に壊滅させられることとなり、翌15日までに鎮圧された。マフムト2世はこれを機会にイェニチェリを廃止することを布告し、ここに200年以上帝国の実権を握り続けたイェニチェリは歴史の幕を閉じた。 イェニチェリの撃滅によって、西洋化に反対する勢力が完全に払拭されたと見ることは難しいが、長らく漸進的な改革に甘んじつつ皇帝の力を蓄えてきたマフムト2世が、改革を強硬に推進する専制君主へと進む象徴的な事件となった。
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