イェニチェリの進出と派閥闘争とは? わかりやすく解説

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イェニチェリの進出と派閥闘争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 09:45 UTC 版)

オスマン帝国領エジプト」の記事における「イェニチェリの進出と派閥闘争」の解説

17世紀の間に総督たるパシャ重要性低下しオスマン帝国中央政府ベイたちが実権を握る状況黙認する傾向強めていた。同時に新たな実力集団としてイェニチェリ軍人たちエジプト政界での発言権拡大させ始めたエジプト駐留イェニチェリ軍団内では、タラフと呼ばれる軍事集団自生しその実力者たちがカイロ商工業者との密接な結びつく一方物価混乱乗じた商人穀物退蔵などにおける住民利害の代表・顔役としてその影響力を高めていった。イェニチェリ軍団エジプト駐留する2つ歩兵軍団のうちの1つであり、もう一つ歩兵軍団であるアザブとの対立強めた両軍は既にエジプト政界における中心勢力となっていた派閥連携しイェニチェリがフィカーリーヤ、アザブがカースィミーヤと結びついた。 両派は対立深め1711年には武力衝突至った。フィカーリーヤはエジプト総督支持取り付け、カースィミーヤの首領カースィム・イーワーズ(英語版)を死亡させたものの、戦闘自体はカースィミーヤの勝利終わった。フィカーリーヤに組したエジプト総督交代させられオスマン帝国はこの「反乱軍」を黙認した。しかし今度主導権握ったカースィミーヤで内部分裂生じ1718年に再び行われた市街戦の末、カースィム・イーワーズの息子、イスマーイール・ベイが勝利者となった彼にオスマン帝国政府からシャイフ・アル=バラド英語版)(カイロの長、ベイたちの首位であることを意味する)という称号初め授与された。エジプト政策決定においてはエジプト総督の下で行われる定例会議存在したが、この頃以降、シャイフ・アル=バラド私邸行われる会議(ジャムイーヤ)が政策決定の場としての重要性増していった。1724年イスマーイール総督陰謀によって暗殺され、フィカーリーヤのシルカス・ベイ(英語版)がシャイフ・アル=バラド昇格したが、自らの派閥メンバーによってすぐ地位追われ上エジプト逃亡した。まもなく、シルカス・ベイはある軍団の長に復帰し、続く戦いで水死という最後迎えた一連の騒乱の中で、イェニチェリ軍団内に形成され軍事集団1つであるカーズダグリーヤ(Qāzdughliyya)の影響力大幅に増した。これはイェニチェリ軍団のカトフダー(副団長)ムスタファー・アル=カーズダグリー(Muṣṭafā al-Qāzdughlī)を始祖とする武力集団であるためこの名前で呼ばれるイェニチェリ内では17世紀後半にキュチュク・ムハンマド(Küchük Muḥammad)が激し権力闘争勝ち抜いて主導権確立したが、彼と対立したカーズダグリーは1694年にキュチュク・ムハンマドを暗殺した1704年のカーズダグリーの死後従者であったハサン・カトフダー、ついでウスマーン・カトフダーが指揮権引き継いでイェニチェリ軍を牛耳った。1736年にウスマーン・カトフダーが暗殺されると、続いて主導権握ったイブラーヒーム・カトフダーが、派閥闘争勝利者であったフィカーリーヤの勢力一掃しエジプト政界はカーズダグリーヤの支配下置かれるようになった。カーズダグリーヤの構成員であったイェニチェリ兵士たちアナトリア系の軍人中心としていたが、政権獲得した後、当時大量にアラブ世界市場供給されグルジアジョージア)系とアブハジア系のマムルークに置き換わっていった。こうしてカーズダグリーヤに所属するマムルーク・ベイたちがエジプト事実上統治者となっていった。イブラーヒームオスマン帝国政府比較従順な姿勢示したが、1754年死去し、その地位はハサン・カトフダーの息子、アブドゥッラフマーン・カトフダーが継承したその後まもなく、主導権はアリー・ベイ・アル=カービル(英語版)(以下、アリー・ベイ)が握ることになる。彼は元々イブラーヒーム・カトフダーが所有するグルジア系のマムルークであったが、自分マムルーク軍団整備し、シャイフ・アル=バラド地位についた。彼は元々は自分パトロンかつ同盟者であったカーズダグリーヤの首領アブドゥッラフマーンヒジャーズ追放し最後に残っていたカースィミーヤの大物サーリフ・ベイ(SāliBey)をガザ追放したその後配下将軍の裏切りによってシリアへの逃亡余儀なくされたが、シリアアクレ総督ザーヒル・アル=ウマル英語版)と友誼を結ぶことに成功しザーヒル協力オスマン宮廷好意得てシャイフ・アル=バラド位を回復した

※この「イェニチェリの進出と派閥闘争」の解説は、「オスマン帝国領エジプト」の解説の一部です。
「イェニチェリの進出と派閥闘争」を含む「オスマン帝国領エジプト」の記事については、「オスマン帝国領エジプト」の概要を参照ください。

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