イェニチェリの進出と派閥闘争
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「オスマン帝国領エジプト」の記事における「イェニチェリの進出と派閥闘争」の解説
17世紀の間に総督たるパシャの重要性は低下し、オスマン帝国の中央政府もベイたちが実権を握る状況を黙認する傾向を強めていた。同時に新たな実力集団としてイェニチェリ軍人たちがエジプト政界での発言権を拡大させ始めた。エジプト駐留のイェニチェリ軍団内では、タラフと呼ばれる軍事集団が自生し、その実力者たちがカイロの商工業者との密接な結びつく一方、物価の混乱に乗じた商人の穀物退蔵などにおける住民利害の代表・顔役としてその影響力を高めていった。イェニチェリ軍団はエジプトに駐留する2つの歩兵軍団のうちの1つであり、もう一つの歩兵軍団であるアザブとの対立を強めた。両軍は既にエジプト政界における中心勢力となっていた派閥と連携し、イェニチェリがフィカーリーヤ、アザブがカースィミーヤと結びついた。 両派は対立を深め、1711年には武力衝突に至った。フィカーリーヤはエジプト総督の支持を取り付け、カースィミーヤの首領カースィム・イーワーズ(英語版)を死亡させたものの、戦闘自体はカースィミーヤの勝利に終わった。フィカーリーヤに組したエジプト総督が交代させられ、オスマン帝国はこの「反乱軍」を黙認した。しかし今度は主導権を握ったカースィミーヤで内部分裂が生じ、1718年に再び行われた市街戦の末、カースィム・イーワーズの息子、イスマーイール・ベイが勝利者となった。彼にはオスマン帝国政府からシャイフ・アル=バラド(英語版)(カイロの長、ベイたちの首位であることを意味する)という称号が初めて授与された。エジプトの政策決定においてはエジプト総督の下で行われる定例会議が存在したが、この頃以降、シャイフ・アル=バラドの私邸で行われる会議(ジャムイーヤ)が政策決定の場としての重要性を増していった。1724年、イスマーイールが総督の陰謀によって暗殺され、フィカーリーヤのシルカス・ベイ(英語版)がシャイフ・アル=バラドに昇格したが、自らの派閥のメンバーによってすぐ地位を追われ、上エジプトに逃亡した。まもなく、シルカス・ベイはある軍団の長に復帰し、続く戦いで水死という最後を迎えた。 一連の騒乱の中で、イェニチェリ軍団内に形成された軍事集団の1つであるカーズダグリーヤ(Qāzdughliyya)の影響力が大幅に増した。これはイェニチェリ軍団のカトフダー(副団長)ムスタファー・アル=カーズダグリー(Muṣṭafā al-Qāzdughlī)を始祖とする武力集団であるためこの名前で呼ばれる。イェニチェリ内では17世紀後半にキュチュク・ムハンマド(Küchük Muḥammad)が激しい権力闘争を勝ち抜いて主導権を確立したが、彼と対立したカーズダグリーは1694年にキュチュク・ムハンマドを暗殺した。1704年のカーズダグリーの死後、従者であったハサン・カトフダー、ついでウスマーン・カトフダーが指揮権を引き継いでイェニチェリ軍を牛耳った。1736年にウスマーン・カトフダーが暗殺されると、続いて主導権を握ったイブラーヒーム・カトフダーが、派閥闘争の勝利者であったフィカーリーヤの勢力を一掃し、エジプト政界はカーズダグリーヤの支配下に置かれるようになった。カーズダグリーヤの構成員であったイェニチェリ兵士たちはアナトリア系の軍人を中心としていたが、政権を獲得した後、当時大量にアラブ世界の市場に供給されたグルジア(ジョージア)系とアブハジア系のマムルークに置き換わっていった。こうしてカーズダグリーヤに所属するマムルーク・ベイたちがエジプトの事実上の統治者となっていった。イブラーヒームはオスマン帝国政府に比較的従順な姿勢を示したが、1754年に死去し、その地位はハサン・カトフダーの息子、アブドゥッラフマーン・カトフダーが継承した。 その後まもなく、主導権はアリー・ベイ・アル=カービル(英語版)(以下、アリー・ベイ)が握ることになる。彼は元々イブラーヒーム・カトフダーが所有するグルジア系のマムルークであったが、自分のマムルーク軍団を整備し、シャイフ・アル=バラドの地位についた。彼は元々は自分のパトロンかつ同盟者であったカーズダグリーヤの首領アブドゥッラフマーンをヒジャーズに追放し、最後に残っていたカースィミーヤの大物サーリフ・ベイ(Sāliḥ Bey)をガザに追放した。その後、配下の将軍の裏切りによってシリアへの逃亡を余儀なくされたが、シリアでアクレ総督ザーヒル・アル=ウマル(英語版)と友誼を結ぶことに成功し、ザーヒルの協力でオスマン宮廷の好意を得てシャイフ・アル=バラド位を回復した。
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