イェニチェリの反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 10:00 UTC 版)
1622年、オスマン2世はメッカ巡礼を宣言した。この宣言の意図は、オスマン支配に抵抗を繰り返しす豪族マアンオール・ファフレッティン討伐のためだったという。しかし、オスマン2世がシリアにおもむいて、当地でイェニチェリ軍団に変わる新たな軍団を創設、編成しようとしている、という噂が流れた。シリアは非正規兵セクバンが初めて使われた地でもあるから噂の信憑性は十分だった。さらにはカイロに遷都しようとしているという噂も流れたため、高位ウラマーのみならず大宰相や黒人宦官長も巡礼を取りやめるようスルタンを説得したが、オスマン2世の意思は硬かった。事態は緊迫の度を増し、ついにイェニチェリ軍団はダヴト・パシャを大宰相に担ぎ上げ、彼らとともに蜂起し、オスマン2世を殺害した。具体的な殺害方法については諸説あるが、「イェディ・クレ(七塔の砦)」の牢内で絞殺されたと思われる。殺害後、遺体から切断された右耳が母太后の許へ送られた。
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