イェナ追放後のフィヒテと無神論論争がもたらしたもの
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「無神論論争」の記事における「イェナ追放後のフィヒテと無神論論争がもたらしたもの」の解説
イェナを追放されたフィヒテのその後の足取りはどうだったか。イエナを追放されたフィヒテにも救いの手を差し伸べるものもいた。当時の哲学者ヤコービは信仰を重んずる哲学の立場から、フィヒテの論文に必ずしも賛同はせず、むしろやや非難する立場にたっていたが、(本人もどちらにすべきか困惑していた)一定の理解は示していた。イエナ追放前後から、前述の学生団体解散などで身体的にも危険さらされていたフィヒテに居住地を提供したりと、かねてからフィヒテと親交があった。ヤコービはザクセン侯国の範囲外であるミュンヘンなどへの招致を提案してきた。また、ベルリン在住のシュレーゲル兄弟からはベルリンへの移住を提案してきた。結局は、シュレーゲルの好意を受け入れて、ベルリンへと居住の地を求めていったが、当初は無神論論争の影響で、プロイセン侯国の領土内である当地でも、危険人物であると思われていた。そこでフィヒテもこの論争の影響の大きさを痛感したと言われる。しかし、こうした嫌疑も晴れて、ベルリンにおいて安住の地を手に入れることができた。1800年4月のことであった。無神論論争への反省から書かれた『人間の使命』はこの頃の著作である。また、これを境に自我の根底に絶対者を置き、自我は絶対者の像として理解されるいわゆる「後期知識学」へとフィヒテの哲学が変貌していくのである。(詳細は、知識学の項を参照)数年後、フィヒテはこの地に新設されたベルリン大学教授に就任。初代学長となる。
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