ダウド・パシャ(1816年 - 1831年)
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「イラクのマムルーク朝」の記事における「ダウド・パシャ(1816年 - 1831年)」の解説
詳細は「en:Dawud Pasha of Baghdad」を参照 ダウド・パシャ(グルジア語: დაუდ ფაშა)はイラクのマムルークの最後の統治者だった。 ダウド・パシャは重要な近代化政策を開始し、運河の浚渫、産業の育成、ヨーロッパ人の指導のもとに軍隊の改革、印刷機の導入を実施した。彼は華やかで手の込んだ宮廷の環境を維持した。その上アラブ部族との日常的なトラブルとシェイクたちとの不和がありババンのクルド人諸侯国に影響力をもるイランとの騒乱とクルド人との深刻な争いに巻き込まれた。イラン人による侵攻が重なり、1818年にはイラン人によるスレイマニヤの占領に発展した。後にダウド・パシャは1826年のコンスタンティノープルにおけるイェニチェリの廃止を利用し、地方の独立勢力としてのイェニチェリを取り除いた。 その一方、イラクにおける自律体制の存在は、長期間心配の種となっており、エジプトのムハンマド・アリー・パシャがオスマン朝のシリアへ干渉をはじめた時、オスマン政府を脅かした。1830年、スルタンは、ダウド・パシャの解任を発令したが、命令書を持った使者はバグダードで逮捕され処刑された。1831年にアリー・リダー・パシャの指揮下、オスマン軍はアレッポからイラクに進軍した。腺ペストの流行と洪水によりイラクは荒廃し、バグダードの10週間にわたる封鎖は大飢饉を招いて降伏した。ダウド・パシャはイラクの地元の聖職者からの反対にも直面し、オスマン軍に降伏し、身柄を委ねた。彼の人生は1851年に終わり、メディーナの寺院の管理人として晩年を過ごした。1831年にバグダードでスルタンの新知事が到着し、オスマン軍によるイラクの直接支配が始まった。 新しいオスマンの知事であるアリー・リダー・パシャは、最後のマムルークのパシャ(太守)が廃された後でさえ、バグダードにおける自律的なマムルーク層の広まりに直面した。彼は後に前マムルーク知事小スルタン・パシャの娘と結婚した。
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