軍隊の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 23:13 UTC 版)
「ムーレイ・イスマーイール」の記事における「軍隊の改革」の解説
1677年頃、ムーレイ・イスマーイールは自分の権威を国じゅうに主張するようになった。 彼は主な敵将を殺したり手足を切り落としてから、自分の帝国を組織するためにメクネスに帰還してみせた。彼がアビド・アル=ブハーリまたは黒人親衛隊という部隊の創設を思いついたのは、この戦いの最中だった。 アラウィー朝の軍隊は、主にサハラ各州およびサハラ周辺の州(現在のタフィラルト、スース、西サハラ、モーリタニアなど)から調達した兵士で構成されていた。これら地域に沢山住んでいた遊牧民マキルが、イスマーイール治世の中期までアラウィー朝の最前線部隊を代表していた。幾つかのジャイシュはこれらのアラブ部族出身で組織されていた。アラウィー朝はまた、既にムハンマド・イブン・シャリーフによって征服済みだったウジダ地域の部族を登用することにも成功した。ジャイシュには彼らへの埋め合わせとして輸入税が免除され、その部隊と引き換えに土地が与えられた。 さらに、イスマーイールはヨーロッパ人改宗者の大砲に関する知識と経験を活用して軍隊にそれを取り入れたほか、ラシード・イブン・シャリーフが当初フェズ北部に導入したアラブ系ザナータ(ベルベル人の遊牧民)の武装団を編成した。バヌヒラル部族の中には、マクゼンの階級を与えられてモロッコ軍の中に少数部隊を編成した者もいた。彼はまた、ジャイシュ・アル=リフィというリーフ出身のベルベル人独立軍を創設し、この一団は後年のスペイン人による植民地化に対抗した17世紀のモロッコ戦争で重要な役割を果たした。 しかしながら、イスマーイールはこれらの部族に単純依存できていたわけではない、なぜなら彼らには長い独立の歴史があり、いつでも寝返ったり自分を見捨てる可能性があったためである。そのため彼は、部族構成の部隊とは異なり、完全に自分に尽くしてくれる黒人親衛隊(又はアビド・アル=ブハーリー)というモロッコ最初の職業軍隊を創設することを決定した。1672年のマラケシュ包囲戦の後、彼はサブサハラアフリカから多数の黒人男性奴隷を輸入し、この軍隊のためモロッコ国内でも多くの自由黒人男性を採用した。当初の構成部隊人数は恐らく14,000人だった。この黒人親衛隊は急拡大し、イスマイル治世の末期にかけては15万人に達した親衛隊員は、入隊すると10歳から16歳の誕生日まで軍事教育を受けた。彼らは自分達と同じく王宮で育てられた黒人女性と結婚していた。 ほかにもイスマーイールはジャイシュ・アル=ウダヤ(これはウダヤ族とは異なる武装団)を創設した。この武装団は3つのリハ(分隊)に分かれていた。第1分隊はアール・スース(スースの家)でスースの4部族で構成されていた。16世紀には、彼らがサアド朝の軍隊中枢を形成し、フェズのマリーン朝を支持するアラブ部族と対抗していた。第2分隊はモーリタニアのムガフラ(M'ghafra)で、彼らは遊牧民バヌマキルの末裔だった。イスマイールの本妻の1人クナタ・ベン・バッカールはこの隊出身である。第3分隊はウダヤ族で構成されており、彼らは元々アドラル高原出身の強靭な砂漠民で、卓越したラクダ騎乗者だった。1674年にマラケシュを征服した後、彼らと遭遇したイスマーイールが、干ばつのため土地を追われざるを得ないウダヤ族の窮状を憂えて自軍のエリート部隊に登用することを決定した。 ジャイシュ・アル=ウダヤはスルターン軍の一大部隊となり、兵役と引き換えに土地が兵士に与えられるマクゼン方式で統率された。歴史家シモン・ピエールによると「アラウィ朝の征服後、マグレブ市民は略奪されて武装解除され、ベルベル人とリフィ人を除けばアビド・アル=ブハーリーとウダヤだけが暴力での独占を行使した。ムーレイ・イスマーイールが死去した30年後の1727年、スルターンにムーレイ・アフマド・アド=ダーアビーを選ぶべくメクネスのウラマーや大臣たちと手を組んだのが、アビド・アル=ブハーリーやウダヤのカイード(高官)達だった」という。ただし、別の資料ではイスマーイールが自らの死を前に後継者として彼を指名したと述べられている。いずれにせよ、イスマーイール死後の無政府時期にウダヤがアビド・アル=ブハーリーと共にスルターン数人を退位させる際の大役を担っていたことは確かである。
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