南北朝時代、大内義弘により京都の文化が長門国に移入されたが、これを細胞として育まれた、この国振りの雅な美術や芸術などへの指向を大内文化と称している。 鎌暮時代に守護大名として中国地方に勢力を伸ばした大内氏は、義弘の代に南北両朝の合一に深く関わって権力を不動のものとした。義弘は応永の乱によって没しているが、その勢威と文化は引き継がれ、室町時代を通じて深く浸透している。そして後に大内氏を打ち破ってこの地を支配した毛利氏もまた、大内氏が築いた文化指向を継承したのであった。 戦国時代の京都の混乱は、一部の鐔工を大内氏の許に走らせた。古萩(こはぎ)と呼ばれる一類を遺した鐔工もそれと考えられており、また、桃山時代から江戸時代初期にかけては、埋忠派の金工も長門に移住しており、これが江戸時代の長州鐔工の名流岡田家を成して幕末まで繁栄している。さらに江戸時代中期以降の長門鐔工は、江戸の伊藤派と技術交流を盛んにし、互いに往還して作品を遺しており、正確で写実的、しかも立体的な構成になる鉄地高彫表現になる作風は長州鐔の特徴ともなっている。 このように長州鐔工の流れを俯瞰すると、中井(なかい)善助(ぜんすけ)家は鉄地に布目象嵌を巧みとする肉彫地透や高彫表現になる作風から、京都にあって華麗な表現を為した正阿弥(しょうあみ)派を祖とし、その技術を携えて毛利家に招かれ、あるいは独自の作風を生み出すべく新天地を求めて移住した者の流れを汲む工と考えられる。 長州鐔工界の中心的存在にあった友恒(ともつね)は先代友幸の子で、安永八年八十五歳没、又は同九年七十五歳没とあるところから、元禄八年あるいは宝永三年の生まれ。宝暦年間より長門萩毛利家に抱えられ、毛利重就の治世下で作品を遺している。鐔の製作を産業とした長州は、江戸と対比されるほどに多くの鐔工を数えるが、友恒は殊に群を抜いて優れた感性を示しており、伊藤派の正確緻密な植物図や雪舟の水墨画をみるような山水図鐔を専らとした、多くの鐔工とは異なる世界観を持っていたことが想像される。 友恒には、鉄地を巧みに造形して大胆かつ動感のある図取りとし、微細な毛彫を加えた肉彫地透に的確な金の布目象嵌を施し、引き締まった空間を創出した作品を見るが、ここに紹介する、我が国の古代思想を形式として鮮明に伝える能楽に取材した翁図鐔も、異色ながら友恒の個性と特徴が良く現われている。 緻密な鉄地を竪丸形に造り込み、耳を以て空間を切り取り、その内部に翁(おきな)の格調高い舞いの場面を描き表わし、各要素をいずれも陽に彫り出しているが、背景には能舞台を象徴する一本松樹に唐草と扇面散らしを細太の線で表わして南蛮的要素を忍ばせる。バランスのとれた布置と複雑な地透により、主題は生気を帯びて躍動感を生み、鐔面を超越して空間に融け込んでいるかの如く自然味がある。子細に観察すると、背景の文様には精密な毛彫が加えられ、しかも唐草の葉には、緻密な毛彫と共に拡大鏡がなければ観察し得ないような微細な金による針状の象嵌が施されており、技術的な視点においても感動的。翁の面は銀と赤銅の厚手の象嵌に表情を豊かに紡ぎ出す正確な肉彫、手にする鈴も金の象嵌。動きのある姿態と足の運びには能楽の所作が表現されて見事と言う他はない。 |