三冠達成 - 引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 06:14 UTC 版)
「メジロラモーヌ」の記事における「三冠達成 - 引退」の解説
競走後には故郷・メジロ牧場で休養に入った。8月には函館競馬場に入って調教を再開、以降は三冠が懸かるエリザベス女王杯を目標に、中山競馬場のクイーンステークスから復帰する予定であった。しかし夏負けのために函館入りから1週間で美浦に帰り、全身に笹針治療を施すことになった。また調教中に挫石が原因と見られる歩行異常を来たし、復帰予定は遅れた。10月に函館から直接関西に入り、疲れが残ってないか半信半疑の状態のなか、ローズステークスで復帰。レースでは先行集団に入り、直線で抜け出しを図るも、先行したポットテスコレディとの競り合いになる。ゴール寸前でクビ差交わして勝利を収めたが、苦しい勝利とも評された。競走後、「辛勝だったのでは」という記者の質問に対し、河内は「切れ味が鈍ったのは確かだが、馬場状態のせいだと思う」とかわした。 次走、11月2日にエリザベス女王杯を迎えたが、後の奥平の回想では、その状態は「70%くらいの調子」であった。本競走の前身・ビクトリアカップの創設以来初めての牝馬三冠達成が懸かり、当日の単勝オッズは1.3倍と圧倒的な1番人気となった。レースでは3番手の一団を進んだが、河内ラモーヌはゴールまで800m地点の第3コーナー下り坂から仕掛け、先頭に並んだ。一部には早過ぎるスパートとも映り、テレビ中継のアナウンスを行っていた杉本清は「河内、河内、早いのか、これでいいのか」と実況した。最後の直線では先頭を保ったが、ゴール前で脚が鈍り、直後に追い込んだスーパーショットが馬体を接した。しかしクビ差凌ぎ切り、4歳牝馬路線が整備されて以来、初めてとなる三冠を達成した。ラモーヌは三冠各競走のトライアル競走も全て制していることから「完全三冠」とも評された。また、この賞金の加算分で、獲得賞金が牝馬として初めて3億円を突破し、当時の歴代賞金女王ともなった。なおこのエリザベス女王杯の勝利で6連勝となり、これは当時の重賞連勝記録であった。三冠を導いた河内は、三冠全ての口取り撮影で北野豊吉の遺影を掲げた。 競走後にはジャパンカップへの出走を期待する声が上がったが、エリザベス女王杯の前から有馬記念での引退が決定しており、北野ミヤが改めて「あの子は花のうちに牧場に戻してやります」との声明を出し、ジャパンカップ回避の上で予定が踏襲される運びとなった。有馬記念の出走馬選定ファン投票では、ミホシンザン、サクラユタカオーに次ぐ3位で選出される。当日は「これまでで最高の体調」という状態で臨み、ミホシンザンに次ぐ2番人気に支持された。レースでは道中中団から直線に向いたが、抜け出しを図ったところで1頭分のスペースにラモーヌ、スダホーク、フレッシュボイスが同時に突っ込み、急ブレーキが掛かる形で失速。態勢を立て直せず、同期のダービー馬ダイナガリバーの9着と大敗を喫した。 当初の予定通り、この競走を最後に引退。翌1月に発表された優駿賞表彰では、最優秀4歳牝馬に選出された。トウメイ以来25年振りとなる牝馬の年度代表馬誕生も注目されたが、こちらは直接対決の有馬記念でラモーヌを下したダイナガリバーが選出された。これについて、競馬評論家の大川慶次郎が「2頭選ぶことはできないのか」と競馬会に問い合わせたが却下され、特別賞授与の提案も退けられたと明かしている。しかし当年の中央競馬フリーハンデでは、過去にテスコガビー、インターグロリア、ハギノトップレディに与えられた60kgを上回り、4歳牝馬の史上最高評価となる62kgが付与された。 2月8日には東京競馬場で引退式が執り行われ、エリザベス女王杯優勝時のゼッケン「13」を付けてラストランが披露された。同年、牝馬三冠が評価され、七冠馬シンボリルドルフと共に顕彰馬に選出された。
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