史上初の三冠達成 - 引退とは? わかりやすく解説

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史上初の三冠達成 - 引退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:21 UTC 版)

セントライト」の記事における「史上初の三冠達成 - 引退」の解説

ダービーの後は休養入り日本競馬史上初のクラシック三冠を秋の目標とした。9月27日復帰戦ではダービー2着のステーツより11kg重い66kgの斤量を負わされ、3着と敗れる。しかし続く古呼馬戦では同じ斤量背負い春に破ったエステイツに再び勝利した翌週、特殊競走(のちの重賞競走)である横浜農林省賞典四・五歳呼馬制したのち、三冠最終戦京都農林省賞典四歳呼馬(のちの菊花賞)に備えて西下前哨戦として臨んだ呼馬戦は、京都到着4日目という慌ただしさのうえ、68kgの斤量負って地元コクチョウ斤量60kg)に2馬身差の2着(3頭立て)と敗れた。しかし、この一叩き調子上向きとなり、10月26日京都農林省賞典四歳呼馬には絶好調の状態で臨んだセントライトの他は、地元の2頭と関東から遠征しミナミモア、ステーツ、阪神優駿牝馬オークス優勝馬テツバンザイのみの計6頭と少頭数で、セントライトは1番人気に推された。レースでは2番手の先行策から、ゴールではミナミモアに2馬身半差を付けて優勝1939年三冠競走整備され以来4年目にして初のクラシック三冠達成した。しかし当時三冠概念それほど浸透していなかったこともあり、報道ダービー優勝時よりも遙かに小さな扱いだった。当事国内が支那事変から太平洋戦争へ向かう緊張にあったことも要因にあったとされる。なお、小西三冠競走で手にした進上金賞金取り分)の2700円は、当時の情勢反映して現金ではなく10年国債支払われており、日本の敗戦と共に紙屑化したという。 その後当時ダービーと並ぶ最高競走だった帝室御賞典目標に、中山ハンデキャップ競走使われる予定だった。しかしこの競走で72kgの斤量背負わされることが判明馬主加藤は「4歳馬に72kgも背負わせるぐらいならば」と、帝室御賞典未練なセントライト引退させた。通算成績12戦9勝。加藤クモハタ持っていたときにも、帝室御賞典で2着となった後に再挑戦させることなく引退させており、加藤競馬師匠だった作家菊池寛は、こうした馬の使い方対し、「賞金を稼がせるつもりならまだ使えるのを、惜しげもなく引退させてしまう。ああ云う所は実に立派だ天下名馬も、彼の如き認められて、はじめて終わり全うし得るのかも知れない」と賛辞送っている。加藤はそれから約3年半後の1945年5月25日アメリカ軍東京へ行った空襲の被害遭い、その翌日死去した2020年までにクラシック三冠達成した牡馬の全8頭において、デビューから引退まで同一年なのは 当馬のみである。また、菊花賞以降レース出走せず引退したのも当馬のみである。

※この「史上初の三冠達成 - 引退」の解説は、「セントライト」の解説の一部です。
「史上初の三冠達成 - 引退」を含む「セントライト」の記事については、「セントライト」の概要を参照ください。

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