ロックマーケットの開拓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 06:10 UTC 版)
「キャロル (バンド)」の記事における「ロックマーケットの開拓」の解説
1970年代前半、吉田拓郎、かぐや姫などの活躍で興隆するフォーク勢とは対照的に、マイナーな存在に甘んじていた日本のロックシーンにとって一筋の光明となったのがキャロルだった。単なるサブカルチャーでしかなかった日本に於けるロックという分野も、キャロルの成功によって一気にその道が開かれた。それまでのロック・リスナーのメイン層はハイティーンで、長髪にジーパン姿がロック・ファッションの定番であったが、リーゼントに革ジャン姿のキャロルの登場は、コンサート会場にリーゼント族や女の子たちを動員させ、ロック・リスナー層を一気に"女・子供"までに広げることに成功した。GSブーム以来、久々に女性ファンの凄まじい矯声と失神騒ぎも復活させた。音楽性やファッションは、デビューから解散までの2年半の間、変わらなかった。 この時代、他のロックバンドの多くが、同時代の英米のロックバンドを模して、技巧重視の音楽を展開したことに対して、キャロルは初期ビートルズを模範としてシンプルなロックンロールを志向したことが大きな特徴といえる。当時の日本のロックは英米の新しい動向を意識した流れであったため、それらとはまったく関係のないところから飛び出したキャロルの登場は大きな衝撃があった。キャロルのようなロックンロールはそれまで日本には存在しなかった。キャロル以前は、まだ"ロックンロール"という音楽が世間で認知されていなかった。当時日本でロックバンドをやろうという人なら、誰もがビートルズは聴いてはいたが、1970年に解散したビートルズの音楽をもはや最先端の音楽とは思ってはなく、さらに1960年初頭のハンブルク時代のアメリカのロックン・ロールなどのカヴァーをやっていた頃のビートルズに着目する人がいるなんて誰も考えもしなかった。またキャロルが拠点にした川崎や横浜は、ザ・ゴールデン・カップスやパワー・ハウスなどを生んでいるが、キャロルはその後継バンドでもなく、まったく音楽関係者も予想しないところから出てきた印象があった。 キャロルは大衆性を強く打ち出し、オールディーズの要素をノリのいい8ビートで、日本的に分かりやすく解釈して見せた。センセーショナルなキャロルの登場ぶりは、頭デッカチになっていた日本のロックシーンを強烈に揺さぶった。いきのいいロックンロールとキャッチーなメロディで時代をロックンロールに向けさせた。また非常に不良のイメージを売りにしていたことも特徴で、当時の風潮であるヒッピー的なドロップアウト(エリートの反抗)の文脈ではなく、"はぐれもの"というブルーカラー的な意匠を強調していた。"はぐれもの"に正しさを求める存在である暴走族の取り巻きが出現したのも必然といえる。 南田勝也は 1960年代中後期のロック生成期において、ロックンロールとロックを隔てる最大の要因はアート指標の有無にあったが、キャロルはその時期を参照体系にしないで済ませた。1950年代から1960年代前期にかけてのロックンロールの価値観ーすなわち肉体、タフネス、成功への欲望などーに基づいたアメリカン・ドリームの幻想をダイレクトかつ戯画的に日本の1970年代に現出させたのがキャロルという存在だった。この方法論は何度でも通用するわけではなく、その戯画的なイメージには一定の真実味がもたされなければならない。その点で矢沢永吉は、著書『成り上がり』というタイトルが示すように、過酷な生い立ちに対する反骨の意志を動力にするという物語―極端なまでのすさんだ境遇の描写が逆に真実味を帯びるようなリアリティ感覚―を可能にするキャラクターだった。だからこそ、矢沢及びキャロルは、1970年代という時期にメジャー化したうえで、『ロックである』との認証を得たほとんど唯一の存在になり得たのである — 南田勝也、『ロックミュージックの社会学』 などと論じている。 ロックンロールのオールディーズ風サウンド、テンションの高いライブ演奏、クールスなどの親衛隊を含めたファッション性などから、矢沢永吉を筆頭にバンド全体がカリスマ性を持っていた。 高護は「キャロル最大の功績は思想を持たなくても日本語のロックンロールが充分にかっこいいことを提示したこと」と述べている。
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