ポマレ王朝の創始
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ポマレ1世は若い頃はトウと名乗り、結婚してからはティナと名乗っていた。ジェームズ・クックはポマレ1世について「195cmもある美男子で、立派な体格の血色の良い男」であったと記している。ポリオヌウ地区の首長であったポマレ1世は、1774年にモーレア島の首長マヒネとの戦闘に敗れ、1777年にクックに対し助力を求めている。これに対しクックは物資の援助を行い、ポマレ1世を助けた。しかし1783年、パレの戦いで敗れたポマレの領土は縮小し、パレのみを支配する状態にまで追い込まれていた。 1789年、ウィリアム・ブライがタヒチにやってきたのをきっかけとして趨勢は大きく変化することとなる。ポマレ1世はブライから銃器を入手すると同時にバウンティ号の反乱者たちに取り入ることに成功し、傭兵として戦闘に投入した。16人のヨーロッパ人とマスケット銃により勢力図は大きく塗り替えられ、1791年、ポマレ1世はタヒチの武力統一に成功することとなり、これを契機として「ポマレ1世」を称するようになった。 1797年3月7日、ロンドン伝道協会の伝道船ダフ号がタヒチに到着すると、ポマレ1世はタヒチの王として宣教師たちと会合を持つ。ポマレ1世は武器の提供を条件として布教を認めたため、タヒチへキリスト教が入ってくることとなった。 1803年9月3日、ポマレ1世の死去により、同年、彼の息子ポマレ2世が即位することとなった。性格は残忍で、敵対する地域の住民を皆殺しにすることもあったという。こうしたことから1808年にはタヒチ島で暴動が発生し、ポマレ2世はモーレア島へと逃亡を図った。ポマレ2世は幾度となくタヒチ島の支配権の奪還を試みたが失敗を繰り返し、次第にそれまでのタヒチの神(オロ神)への信仰が薄れていった。イギリス人宣教師ヘンリー・ノットの影響もあってキリスト教へと傾倒していったポマレ2世は1813年7月、モーレア島にキリスト教の学校と教会を建設した。ポマレ2世はキリスト教グループを形成して勢力の回復に成功すると1815年、フェイ・ピーの戦いにおいてライアテア島のタマトア4世とボラボラ島のタポア1世を味方に付けタヒチ島を攻め、勝利を収めた。 タヒチでの権力を確立したポマレ2世は同年、正式にポマレ王朝の樹立を宣言することとなる。国王となったポマレ2世は全島民の改宗を目指してタブーの改革に取り組んだ。ティキなどの神像を破壊し、豚の丸焼きや嬰児殺しといった伝統的習慣の禁止などが始めに取り組まれた。 1817年、イギリス人宣教師ウィリアム・エリスが印刷機を持ち込むと『聖書』のタヒチ語への翻訳が行われるようになり、島民の改宗は大幅に前進した。翌年にはタヒチ伝道協会が設立され、ノットによる法典が発布される。1819年にはポマレ2世も洗礼を受け、それまで土着していたオロ神信仰は影を潜めていった。 1807年ごろから、タヒチは太平洋における補給地としての地位を確立していき、経済的な発展を遂げるようになる。オーストラリアとの間で行われた豚肉の交易はタヒチに厖大な利益をもたらし、ポマレ2世の権力基盤をより磐石なものへとしていった。豚肉の輸出に変えて輸入されるものとしては布地、衣類、器具、工具、武器、弾薬、酒類といったものがあった。 1821年12月7日、ポマレ2世が死去すると1820年に産まれたポマレ3世がその跡を継いだ。しかし、実際の政権を握ったのはポマレ2世の内縁の妻であり、ポマレ4世の母親であるテレモエモエ(ヴァヒネ・ポマレ)であった。1826年、ポマレ3世はアメリカとの通商条約を締結し、交易を始めるようになる。1827年にポマレ3世が死去すると彼の義姉にあたるアイマタがポマレ4世として14歳で即位した。
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